考え方を改めました

 落とし所というか、着地点が見えない、というか着地点を見ない人たち相手に、自分だけ着地点を考えても仕方がないなと思う。
 生き方の問題なんだろうな。着地しないで、その場しのぎで、その場その場気持ちよく、気分が良ければそれでいい人たちが世の中には一杯いるんだなと良く分かった。
 ルールはある。でも、ルールの外側にまで現実は存在している。ルールは人工物であり、現実は自然物であり、自然物は人工物よりも常に外側にまで存在している。
 それならばルールを広げてルールで管理できる状態にすこしずつ変えていこうという着地点を見た議論をしなければならないのに、ルールがあって、その外側は『有り得ない』とする。
 日本に置けるルールというものは、そうやって運用されているのが現実なのかも知れない。
 『有り得ない』ということが一度でも起きたらルールは崩壊し本当の無法が始まるのに、現状のルールがあることに安住し、ルール遵守だけを言っていれば何とかなるとその場の気分だけの人たちが現状で『有り得ないこと』がない単なるラッキーだけで暮らしている。

 

法案作成と省庁官僚制

法案作成と省庁官僚制

 この本は阪神震災でそれまでの法律では有り得ないはずの都市大地震の復興のために有り得ない災害を災害関連の法律を作ることで措置しようと動いた官僚の話である。
 でも、これはまだいい。復興しようと皆していた。復興した神戸を皆思い描いていた。
 本当のトラブルは、どちらも解決の方法と解決した形を何も思い描かず、その場の『怠惰』と『憤激』だけで動いているような問題である。

 こういう感情が交じる問題は、放射性廃棄物と一緒で、半減期がたつまで封印するしかないんだと思う。
 待つことも、戦術のうちだ。