デリケートな問題
『歎異抄』という本がある。苦悶の本である。読みながら、なんでも一つの道を通すのは大変だなと実感している。
どの分野も『これに一生を捧げます』という人がいて、そう考えると絵を描いたり文章を考えたりというのは、他人の知識を借りなきゃどうにもならないんだなと思う。雑誌だってカメラマンに取材の調整した人がいるわけで(私もやったことがある)、あまり厳密に著作権を運用したら文化は滅びると思う。こう描いていても、引用されたりコピペされたりというのはあるなと思う。でも、それが作品を公開することであって、やっぱりやってくといろいろと問題が出てくる。
だが、私はアイディアについては私のアイディアについても、著作権ではなく特許権の範疇だと思っているし、特許権には特許を維持するための費用がかかるけれど、それ以上に私は私のアイディアが誰かを奮い立たせるのなら、それで良いと思っている。アイディアについては著作権を私は主張しない。描きたければ描けばいい。描いているうちにもっと先に私は行っちゃうから。
でも、結局著作権もこれから将来に向けて自由な記述・描写・表現の余地を残すために、著作権の濫用はいけないと思う。何が正当な主張か何がパクリかはもとを描いた、パクられた側の当人が決めるべきであって、そこが著作権侵害が親告罪となっているという法の精神ではないだろうか。
特に知的財産権と言うところで新たな定義を求めることを訴える人がいるが、でもその知的財産権の考え方は今まで『いいがかり』にしか使われてこなかったし、結局は知的財産権専門の法務部と弁護士を太らせるだけだった。それに、そういった知的財産権についても、逸失利益の考え方にせよ、強いものがのさばり、弱いものは泣き寝入りしかなかった。そして、第5の権力となったウェブも、結局は好悪どころか、単に騒ぐネタを欲しがるだけの暇人の巣窟になってしまった。
特に私が『道真異聞』という作品の中で、『正義に飢える人』というものをたまたま書いている。日頃、正義に飢えるようなろくでもないことを仕事でしていて、その代わりに仕事以外のところでたまたま見つけた黒を黒と声高に叫ぶことの快感、正義という快感に酔いしれる人。逆に、黒を白だということが金になっている人々がいる。
どちらも経済と精神のリビドー、快感に酔いしれているだけで、そういう外野はとうのモノを世に書いて送り出す人間の気持ちとは別のところでの快感のための引っ張り合いでしかない。
そんなもので正当な議論などできるはずがない。そして、『だとしたら問題と思われ』の野次馬がついに人の生命を脅かすようになった。
まあ、そういう世の中なんだろうけど。もっとデリケートな問題なのに、あまり苦悩した跡がなくバッサリと絶版が決まった彼女のことを思うと、まあ若いんだし、おそらく指摘されてブチ切れて自殺のつもりで彼女自身が全冊絶版にした可能性があるかもしれない。
竹熊さんは事件再発を防ぐためにライブラリーの設立をと言う。反対する人もいるが、別に資料映像を蓄積するなんて、マンガで屋台骨を支えている大手の出版社であればそれぞれ独自に作れるだろうと思っている。だが、どっちにしろ、そうすることで著作権の運用を厳しくしただけで、憲法の保障する国民の表現の自由を出版社あるいはそれに準ずるライブラリ会社が囲い込むだけで、またしても太るのは法務部と弁護士という事態になるだけの気がする。
で、私の事案については、結局相手側のサイトも無視するようになったし、私も自分で書いたものが他人と一致すると言う驚きで、精神分裂病の思考漏出のように思えてしばらく何もできなかった。原稿を書こうとしても、誰かの文章をどこかで覚えていて、それを自分の文章のつもりで再生しているんじゃないかと苦しんだ。1文字も書けなかった。
関係各所にいろいろな迷惑もかけたし、お気遣いいただいた人もいた。なによりもこの事案で、一つの良いサイトが記述削除となってしまった。それを今、深く恥じている。心より、すまない。そう思っている。私にそう付け入るだけの非があるのだと思う。
平和的に共存できればと思った。私は戦うというよりも、もっとモノを作る者としての『同志としての苦労』で、ご理解いただけるものと思った。そして、具体的な解決策も話した。補償も申し出た。でも、その全てが拒否されてしまった。
ただ、あのときは余りにも事態がエスカレートしすぎていて、著作権を濫用するような言い方を外野にされたので、そんなことでは文化は成長しないとあのときは思った。文化とは、著作権の考え方はそうじゃないだろと。
まあ、現実には成長も減ったくれもない。
現在はギリシアの陶片追放の時代に逆戻りとなった。私ごときの心配は、蟷螂の斧だった。
現実はもっと恐ろしい事態に進んでしまった。
今後こうやって作家の追放は進むだろう。賞の中学生の受賞者がいて、おそらく次は犬の書いた本が売り出されるだろう。逆に、幸運と努力で積み上げてきた中堅のベテランが魂を表現するための合間のツナギの部分をパクリとほじくり返されて、言われて生命を断たれるだろう。その数はもっと増えるだろう。
作家は神さまではない。どうしても不得意な部分はある。そこは資料で勉強するしかないが、資料の要点をつかむというのもまた不得意なだけに難しい。そこで、大勢に影響がないところについては注意が向かず、ミスをすることはある。だが、そのミスを絶対にしない人などいるのだろうか。完全に全ての言葉がオリジナルな人なんていない。言葉はオリジナリティだけでなく、共有性で共有されるから、小説にしろマンガにしろ、人と人との壁を越えて広まっていく。ただ、それをどう上手くやるかだけの程度の問題になってしまう。
そこで悲しいけれど、第5の権力となったウェブは、それまでの第1から第4(マスコミ)と同じように、腐りつつある。ウェブは、暇で誰かを陥れ、その誰かの命を奪う快感に酔う無責任な人々の楽園となっている。
私は別に干されたわけでもなんでもなく、普通に仕事の話は続いている。切れ目なく作品を出すというのは今の中堅作家にとってはほとんど有り得ない。賞を受賞し、私もここでは書けないあれやこれやでなんとかつながっている人はいる。でも、昔ほどは売れない。
どの出版社も、売れない売れないという声で満ちていると私は同僚から聞いた。それでも売れる本を描きたいと思う。人の望むものを描こうと思う。でも、それ以前に自分が納得しなければ、先に進まない。
- 作者: 斎藤孝
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2004/10/08
- メディア: 単行本
- 購入: 2人 クリック: 219回
- この商品を含むブログ (66件) を見る
確かにコメントには著作権があると言うだろう。だが、相手の文章や歴史をろくに考えずに『だとしたら問題と思われ』の1行レスを何か意味のあるモノのように思っている人が多すぎる。
本当の文章、エッセイとは、それを描いた人の、どう生きてきて、どう感じ、どう生きていくかという『あり方』に関わるものだ。相手を罵倒するだけの文章は文章ではない。便所の落書きである。ここらへん、ブログの時代が始まって勘違いしている人が多いようだ。特に『コメント力』なんて本が出る時代である。自分を隠し、匿名で非現実的で無責任な事ばかり言う。匿名だから書き捨てと無知を書き、それをスルーされていてもスルーされただけでペナルティはないとトンズラこく。匿名というのはそういう面を持っている。
それはテレビ放送の時に『一億総白痴化』と論じた大宅壮一の通りとなったと言わざるを得ない。結局、正義に飢えた人々が群がっているだけなのだ。そして、あやふやな仲間意識の中で、自分はどうあるべきかということに蓋をしている。『みんな』意識、『何でも多数決』意識の小学生段階なのだ。起承転結のまとまった文章すら書けない小学生の段階だ。
だが、我々が今の時代に必要としているのは、コメント力ではなく、説得をする技術なのだ。
結局、私はあの件について、私は苦しみ抜いて、悪い先例となることを防ごうと精一杯申し開きをした。
だが、今回、私の抵抗はまったく虚しいことになった。
末次氏の絶版という形で悪い先例ができてしまった。
常習者だったなどと言われるが、そこは竹熊さんのブログhttp://takekuma.cocolog-nifty.com/で分かると思う。あっちの方がずっと詳しい。私は竹熊さんとほぼ同意見である。
私について、どうなるかは知らない。私は描き続ける。仕事も進んでいる。通常の日々が続くけれど、私が思っていたよりもずっと速い速度でウェブがウェブを自滅させる腐敗構造は出来上がってしまった。動物病院事件があった。あれで2ちゃんねるは敗訴した。そして、個人情報保護法が迫っている。この法律について云々する人もいるが、それについてはいずれ。
残念ながら、それは2ちゃんねるの自業自得だろう。私には実は嫌いな作家が何人かいる。だが、その作家について書かれたスレを見ると、いくら嫌いな作家でもここまで書いたら『ひどすぎるよ』と思う。ウェブに向かうだけでなく、その上匿名となると、何を書いても良いと思う人々が大勢いるようだ。
2ちゃんねるは腐敗してしまった。わずかな人々がそれでも良スレ回収を行っている。素晴らしいことだと思う。でも、その他は惨憺たるものだ。悲しいけれど、2ちゃんも、第5権力というあっち側になりつつある。全てを否定するつもりはないが、多くの板で、悲しい状態が続いている。
正義と刺激と金に飢えた人々の多さに目眩がする。人はどうしてここまで俗悪になれるのだろう。公人となったらプライバシーも人間としての遠慮配慮もなく、ずけずけと土足で入り込む。その上事件があれば傷が癒えるどころか、未だ混迷している遺族にマイクを突きつけ、生き埋め被害者の音を探っている被災地の上空にヘリを何機も飛ばす。それが国民の知る権利なのか? そのうえちょっとデビューすると嫉妬かなんだか知らないけれど無制限に叩きまくる。自殺してもなお止まない。それが自由なのか?
私には分からない。