男クラ

 というわけで、時を見て書きためていたバカな昔話。

 私が高校に入学したその日だった。
 あれ、何で自分の出席番号が40番台なんだろう。40番台は普通女子だよなあ。
 あの時代は男子を1番に、以降男子20番台が終わると女子20番台となるように出席番号が振られていたのである。
 おかしい、オカシイと思いながら、クラスにいくと、部屋には男子ばかりうじゃうじゃいる。
 おかしなことに、うちの学校は男女共学校なのに、しかもちゃんと全12クラスにならせば特に不自然もなく男女クラスにできるのに、1年6組だけが男子のみのクラス、男クラだった。
 ショックだった。
 じつはそのころ、気にしている女の子がいた。彼女がこの高校に行くというので、まあこれぐらいの偏差値の高校ならいじめもひどくあるまいと選んだ高校だった。
 心の中で、密かに同じくラスにならないかなと願っていた。
 それが、彼女のクラスはなんと別の階、しかも私は男クラ。
 がーん。
 高校生活の目算の狂いは、既にここから始まっていたのだった。
 ところが、男クラ生活で、女っ気がないことは当時私があこがれていた昔の学校のようで、私にとっては面白かった。
 うちの学校は春に体育記録会というのがあった。長後という神奈川県南部の陸上競技場に行って、体育祭みたいなものをやるのだ。ちなみにそのころ私の学校は体育祭と文化祭を1年おきにやっていた。つまり体育祭を2回経験できる生徒と、文化祭を2回経験できる生徒に別れるのだ。それはあとで生徒会の運動で毎年文化祭と体育祭をやることになり解消されたが、ヘンな学校だった。
 その体育記録会では、なぜか競技の参加者の名簿が出回り、オッズまでつけて賭けをやった。バカな話であるが、その長後までの切符を回数券で買って売りさばく者もいた。よく考えれば商才のある生徒が多い学校でもあった。バカな話であるが、楽しい日々だった。
 夏になると、皆空調のない教室の暑さに上半身ハダカになり、数学の先生に『それじゃわかんねーよ!』とヤジを飛ばしたものだった。数学も当時は数Ⅰ、まだ基礎解析の頃である。先生は方程式に1を代入して説明したが、そういう教え方ではその場は納得しても、それ以降の応用には役に立たないのである。もうちょっと根気よく授業をすれば良かったのかも知れないが、先生も生徒も暑さでへばって力つきていた。なにしろ田圃の真ん中の学校で、風が無くなるとすさまじく蒸し暑くなるのだった。
 意外と、男子だけというのも気兼ねなく話せることで良いこともあった。
 当時、我々男クラの人間は非モテだったので、童貞仲間でいろいろと妄想して興奮したものである。特に当時、16・17の女の子は肉付きもよく、独特のいやらしさがある。当時は特に女子の体操服がブルマで、そこからにょきにょきと伸びた生足がとてもまぶしいのである。
 もう辛抱たまらんといいつつ、童貞独特の渇望でエロネタ探求にみな頑張っていた。
 冗談で女子バレー部の主将を虎ロープで縛って、なんて事を口にするだけでご飯2杯は行けるほど飢えていました。
 特にそういう話題は体育会系の部活の子がロッカールームトークとしてよくやっていた。部活がそういった性欲を抑えるなんてのは嘘なのだなあと私は思っていた。もちろん実行はせず、妄想だけでご飯いっていた時代である。
 近所に某スーパーがあった。そことどう話を付けたのか分からないけれどショッピングカートを借りてきて使っている者がいた。当然カゴも拝借していた。便利に使っていた。
 特に秋の文化祭を過ぎると、その暴走は更に進んだ。
 文化祭の模擬店の調理用に持ち込んだカセットコンロが残っていて、コンビニで売っていた一人鍋セットを昼休みに煮込んで食べている者もいた。
 冬になって、学校の石油ストーブを点ける時、我が男クラは灯油の消費量が多かったらしく、よそのクラスからかすめ取ってきたりしていた。
 また、そのストーブの上には室内が乾燥しすぎないように鍋が置いてあって、水を張って湯気が出るようにしておいたのだが、放課後、その鍋を洗って近所のスーパーから買ってきた具材で鍋を作って、みなでつついたりもした。
 さっそく先生に見つかったが、先生は『美味そうだなあ』と笑っていた。
 懐かしい思い出であるが、次第に皆成績が悪くなっていくのも見えていた時代だった。
 うちの学校はそれほど入学時の成績の悪い学校ではなかったのだが、なにしろ1年の頃に小学校でやるような箱根の外輪山の暗記とか、海老名市の土地の使用状況を白地図に色塗りして調べるとか、そんな勉強ばかりだったのだ。
 その上、英語の教師は試験の答案を返す時、『出来は悪いで〜す』と平気で言っていた。出来が皆悪いという事は、教え方に問題があるんじゃないかと今思うのだが、彼はそういう頭は働かなかったようである。頭が働かないわりには政治的なことも言って生徒のヒンシュクを買っていた。しかも男子クラスの男子はそれぞれに芯を持っていたので、話をする時は容赦なく批判していた。
 よく考えれば、男子クラスというのを1年だけ体験できたので、これはこれでよかったのかもしれない。男子校ではこれが3年続くのである。すこし怖い。
 貴重な体験だった、と今は記憶の美化作用で思うが、当時の私は、何だかなあと思っていたのは事実である。
 私ももう32歳。これ以上思い出を美化しないようにせねばなあと思う。