私は財前派(白い巨塔)

 平成版の唐沢財前ね。
 いやあ、ああいう上昇志向というかがなくなって里見先生みたいな人ばっかりになるといけないと思う。
 財前でなければあの世界を変えられないし、変えなきゃ里見先生も守れない。結局鵜飼学長の思うがままになってしまう。そこで財前は必死に上昇していったんだと思う。
 それと、男にはどうしようもなくあるんですよ、上昇志向というか、野望というか。小さく密やかに生きて行けたらと思うのに、どこかで羨望と嫉妬が渦巻いてしまう。
 そういう財前的なものを『抜き身の刃』で書いた。
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 今読み返すとまた感慨がある。最高とは思えないけど、最善だったと思う。今ならもっと書けるかな、と思うけど、でも一度公表した作品なので、ちゃんと水準はクリアしてる。ちゃんと『白い巨塔』も出てるし。というか、読みながら『白い巨塔』サントラ(加古隆)を聴くとムチャクチャツボにはまる。
 ワークアーツとか、盛永元総理とか、いろいろ他の作品にもまたがって面白いです。
 娯楽小説、という言葉には意味がありすぎると思う。作者が『どうだ楽しいだろ』と提出してるだけかもしれないし、娯楽にだって幅はある。中村雄二郎さんとか大江健三郎さんが娯楽の人もいればあかほりさとるさんが読めない人だっている。世の中は上には上がいて、最新の科学理論の駆使に娯楽を見てくれる人もいる。
 それを『娯楽小説』と言い切ってしまうところには、若干の『娯楽ですから』という言い訳じみたものを感じる。というか、それでこの前、編集とケンカしたし。
 読者を馬鹿にするのもいい加減にしろと。娯楽だからこれで読者は満足するんだよ、って、その満足する人が減ってるからアンタの会社の本売れてないんじゃんみたいな。
 結局、小説家が自分の書きたいことと読者の読みたいことをマッチさせるなんて言う状態を自由に作れるというのは傲慢だと思う。読者はこの程度、ってリミットしていることになる。で、自分の書くこともこの程度、ってリミットする。そうなれば妥協は際限なく続く。
 妥協せずに必死に書く、無我夢中で書く。私はまだその段階。作者として『読者として読みたいところを描く』なんて高等なことはまだ私にはできません。
 多分一生できないと思う。