他人コントローラを持ってしまったバカと、『コメントはいらない』


asahi.com:式での起立・斉唱定めた都教委通達は「違憲」 東京地裁-社会
http://www.asahi.com/national/update/0921/TKY200609210287.html


 裁判長難波孝一は バ カ じゃないのか。司法の傲慢だろう。まあ上級審でひっくり返るのは目に見えているが。判決は読めば読むほどおかしな判決である。詳しくは大石英司さんのページをご覧頂きたい。全くの同感である。


大石英司の代替空港: 蛇足執筆が生き甲斐の裁判長
http://eiji.txt-nifty.com/diary/2006/09/post_b281.html

 
 第一、日本人であることに中立、っていうのはいわゆる地球人って事ですか? じゃあなんでロシアに漁船が撃たれるんですか? レバノンでなんであんなに争うんですか? 
 もうトンデモ架空戦記と同じようにトンデモ平和史観というのがあるみたい。
 一応現実に生きているんだからさ、妄想に生きるのは勝手だけど、現実のレベルにはみ出してくるなといいたい。
 我々はどうやっても日本人であることは逃れられないのだし、日本だけが取り立てて悪い国というのは特定アジアの工作で作られたアカ史観だろうが。第一中立というのなら中国で反中国的態度、五星紅旗を引きずり降ろすとか、燃やすとかできるようでないと中立な世界ではないだろう。
 日本の国内問題をなぜか日本の司法権の及ばない特定アジアを含めて中立と言っているのだから、バカも甚だしい。中国国旗燃やしたら中国国内ではまず間違いなく政治犯だよ。そういう政治犯を取り締まる国とこれからいろいろと政治的に争わなくてはならなくなる情勢なのに(中国の地図の中には沖縄を中国領としているものがあるらしい)、日本人であることを罪悪にする判決を下したのだ。
 はっきり言って、難波裁判長はアカ教師どもとともに日本人全員を辱めた。
 内心の自由を奪われたと彼らが主張するなら、私も彼らに内心の自由を奪われた。
 訴えてやりたいぐらいだ。


軍事評論家=佐藤守のブログ日記 - 裁判官がおかしい!
http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20060922/1158882845


 佐藤守さんのところでも馬鹿なブサヨ佐藤守さんにかみついて騒ぎになっている。
 佐藤さんも忙しいんだからさ、出てくるなよ。
 私自身ブサヨにはいつも苛立つが、だからといってどうこうはしない。他人と自分は別だ。
 たとえばプラモの製作記のページがある。そこの傍らに正しい戦争などないと書いてあって、イラク戦争を批判している。
 でも、私は特にメールを送ったり掲示板に書いたりしない。私はプラモの話を見に来たのであって、他のことまでとやかくいうのは筋違いだ。
 第一一人の人間をヘコませてそれで社会正義が実現されるのだろうか。所詮一人ではないか。私は私のページで何万人という人を相手にしているが、政治的な発言をするときと、よねでん線の話をするときではそれぞれの立場なのである。
 他人もそうだと思っているし、文句を付けても仕方がないと思っている。
 他人を変えるというのは罪深いことなのだ。だからこそこのバカ教師どもがこれから多くの子供たちにそういう馬鹿な考えを押しつけるのかと思うと暗澹たる気持ちがする。
 映画のサイトでも、憲法前文を引用してイラク戦争を批判している人がいる。前文は解釈の余地があって、私は好きだがその結果私はイラク戦争であっても正当と思うのが前文の精神と強弁できると思う。フセイン政権はまさに圧政だったのだ。
 でも、それでも思想信条が違っても作り出す映画の批評は別だ。映画評ですばらしいものを何度か見ているので、私は内心『そうじゃないんだけどな』と思いつつも、あえて言わない。
 それは百メートル走のメダリストが水泳ができないからメダルに値しないというのと同じだ。政治センスも文芸センスも絵のセンスもそれぞれ別だ。
 ただ、私の場合は遠い向こうに近代十種みたいなものを考えているからあちこちやるけど、人の評価をどれそれだから他のもダメというリンケージ的思考では本当に人に宿ることのある芸の心を見失う。
 芸とは、人間のものではない。長年芸事に時間と金と労力を投資した上に、時折何者かの力が降りてきて発現される現象であり、それは芸事をやる人なら分かると思うが、それは公共的なものであり、権利は作者にあっても、それを鑑賞する幸せを得ることは公共的な権利に近い。
 つまらぬ差異で文句を付けてイヤになってその人がサイトを閉鎖してしまったら大変勿体無いのだ。
 他人を見るのは良いことだ。他人には自分にはないいろいろなモノがある。
 でも、他人を自分の思うとおりにしようということは罪深いのだ。
 ましてや、何かを自分が教えられるなんてのは思い上がりも甚だしい。
 どんなブサヨであれ、そこにいたるまでは何かがあったのだ。
 だが、ブサヨが調子に乗ってこっちを変えようとしたら拒絶する。
 でも、私はブサヨを摘発する警察めいた気持ちになることはない。
 だから私はコメント欄がイヤなのだ。
 いや、よねでん線とかコメント欄作ろうかなと思うことはある。どうでしょう? みたいな気持ちになることもある。
 だが、世の中にはこういう他人を変えることの罪深さと、他人の経てきた人生についての立場を越えた敬意というのが全くない馬鹿どもがいる。
 それがとてつもなくイヤなのだ。


 そこで、ミクシィという場でそういう敬意を持つ人々だけのコミュニティというものを考えたのだろうけど、現実には無理そう。
 だって、年齢詐称みたいなのが一杯いるんだもの。
 心が痛むよ。本当に。
 私はメールで充分。公開の掲示板なんかいらない。コメント欄もいらない。