久々の原稿仕事と、逆の意味での障害者としてのシファ

 実に1ヶ月放置。ものの見事にリソースが枯渇した。
 でも、今日買った本で30代前半は若手なんて書いてあってびっくり。もう入水するしか道がないぐらいの年齢かなと思っていたけど、まあ今は時代が違うのか。
 仕事は山積み。でも原稿仕事もできるようになった。
 内心心穏やかでないこともいくつもある。内心白旗を揚げてしまおうかとも思った。
 でも、こうして生きている。


 しかし、どうしてこうも『平凡な日常』と未だに書くクリエイターが多いのだろう。平凡な日常を送ることがいかに難しいか。その難しさがあるからこそ、一億総中流の時代の終わりも言われるし、格差社会なんてことも言われるのだ。
 もともと総中流ではなかった。自分は高校入学時にMSX2を何とか買えたけど、中学でX1-turboを持っている子もいたし、MZ-1500やMZ-2500の子もいた。ウチは住宅ローン大変だったけどものすごいでっかくて部屋の多い家に住んでいる子もいた。
 そんな『平凡』は幻想だったのだ。もとから格差はあるし、中流でもなかったし、平凡でもない。
 つまらないやつはいることはいるけど、でもそれぞれにきちんと物語はあるし、それを掘り下げるのも物語を紡ぐ者の仕事だろう。
 確かに平凡という顧客層がいれば商売はやりやすい。でも、そんなものもない。前線から離れた後方の希望的観測にすぎないのだ。
 バラバラな、趣味嗜好もそれぞれ違う読者に読まれるのを覚悟せねばならないのだし、その覚悟はいわゆる業界に住んで私こそ時代の中心みたいに思っている人ほど、裸の王様になるだけなのだが、今はその経済と需要の変化の速度をいろいろなメディアやニャン通とかワン報堂というか、知的所有権の意義を曲解して誰かをひっかけるワナのように思っているソニーをはじめとしたDRM陣営とその無自覚的信奉者が遅くしているから、たまたま私こそが読者の代表なんて思っているにすぎない。そんなものは幻想なのだ。第一数字なんてものがいかにいい加減か、いくつかのCDのセールスの数字が踏みにじられている現状で理解すべきなのだ。


 かといって私も読者の代表でもないし、作者の代表でもない。世の中の片隅で好きなプリンセス・プラスティックを描いて、細々と売って、ほかの仕事で生活をしているだけである。でも、それでも喜怒哀楽を体験しているし、それをいとおしく思う。
 もちろん34歳、まだ野心なんてものもある。それとぶつかってしまう様々なひどい現状への呪詛めいたものもはくこともある。
 でも、私は一つの世界を追求することを選んだのだ。人生の仕事たりえるものを選んで、それにこうして深夜睡眠を削りながら取り組んでいる。10年間、今思えばあれの話に乗っていれば経済的に楽だったかな、なんて事はいくつもある。でも、それは詮無いし、そして私はそのとき、私の非力を知っていたのだ。


 はっきり言って、7月中旬から今まで、準夜勤の仕事と庶務でさんざんテキストを考え、打ったけど、なんとちゃんとした原稿は1ヶ月あったのに12枚という驚くべき状態で、大変自分をなじりつつの発泡酒である。もちろんその途中には絶望した事故もあったし、内心穏やかではない事件も起きた。
 でも、私は描く。売れようが売れまいが、そんなことは私の判断の範疇ではない。ただ私は私の信じるものを描く。そして日常の喜怒哀楽に、ちゃんと自分を律したり、解き放ったりしていこうと思う。
 苦しいけれど、喜びもある。今自作を読み返せば、後悔ではないけれど、それでも非力だったなと省みることはある。その非力がわからないで、言葉を振り回していたのだなとも思う。
 でも、私の描きたいものは、もちろんスタイルや外面では他の人に『やられた!』というのはあるけれど、タマシイはオリジナルのままである。タマシイはそのまま、今も影響を受けるスタイルのレイヤーはあっても、その奥底で脈打っている。


 ここ数日、いろいろな人に出会っている。
 職場で知り合ったK君には、その抱えてしまった物語の大きさに絶句もしたけれど、彼は彼なりにがんばっているし、それで成立していると思う。


 それと、病について。
 なんか病人に対して時々不摂生がいけないんだ、という人がいまだにいる。
 明治時代の医学しか知らないのだろう。胃ガン肺ガン、糖尿病精神疾患、すべての病気にいえることだけど、同じたばこを吸っていても肺ガンになる人とならないひとがいる。同じ豚骨ラーメンを毎日食べ、酒をあおっていても、全員が同じように病になるわけではない。
 そういう因果関係を考えるとき、現代医学では個人差というだけでなく、何らかの遺伝子的要素、ともいう。でも、その遺伝子的要素はメンデルのマメの改良みたいなものではない。もともと人間の遺伝子は生殖の段階だけでなく、様々な段階で突然変異と淘汰の洗礼を受けている。それを越えて生まれ生きている、それが人間であり、その遺伝子的要素というのをメンデルマメのように思っていると、ナチスのT4計画や、日本でのハンセン病と同じ、断種すればいいじゃん、という発想につながる。でも、断種を続けてもハンセン病は撲滅できなかった。逆に多くの人がハンセン病になり、収容され、人間以下の扱いで閉じこめられた。そして、ハンセン病を簡単に治してしまう薬が発見され、収容は無意味であったことが明らかになった。それでも政治的怠惰と無理解の協奏曲で、馬鹿な隔離が長い間続けられた。
 第一、節制を言うのは医者の逃げ言だというのは多くの医者の知っているところである。夏目漱石だって、別にちゃんとピロリ菌を殺菌できれば胃潰瘍なんて死因になり得ないようなことで死ぬこともなかった。だが、医者はいつも、逃げ言で言うのだ。自分の治せない病気は、すべて患者に責任があるのだと。
 もちろんそんなことを露骨に言う医者は珍しいが、しかし肺ガンのリスクで禁煙を言い、節制を言って酒もやめろといいながら、診察室が禁煙になったのを呪いながら喫煙コーナーを愛用し、帰りに一杯飲むと言いながら深酒になる不摂生な医者も少なくない。むしろ、医者というストレスから、そういう不摂生に至ることもある。
 ストレスをためないように、という医者もストレスにさらされている。そして、ストレス解消を言いながら、精神科医療でのストレスが解消できずに自殺する医者の増加が現在問題になっている。


 結局、自己責任と言う人々もいるし、たしかに明らかに判断の甘い人々もいる。しかし、もとから健康なんてものも、平凡と同様、幻想なのだ。
 健常人もいつ怪我をするかわからない。ちょっとエスカレーターにスキマがあれば足の指を失ってしまうなんて事も起きるが、それを粗忽と責めてどうするのか。
 人間は誰しも粗忽になる瞬間がある。徹夜でやらねばならない仕事だってあるし、別に注意が向いているなんて事もある。もちろんそれにつけ込んでアメリカ型の訴訟社会にしようとする弁護士もいるけれど、でも結局、常識とか、平常とか、平凡とか、健康とか、そういうものはすべてマスコミや我々一般人がメンドクサイから標準的なモデルを作ってそれを線形拡大すれば社会が見えて便利だよね、という発想で作った虚構なのだ。


 私は最近特にそう思う。私の粗忽が原因で一時骨折したときにバリアフリーってありがたいなと思った。でも、その粗忽がなければ、粗忽者を基準にせず、『健常者』基準で良いんじゃないか、みたいないい加減な考えをいまだに根底に持っていたのかもしれない。
 私自身そういうところで自己批判するけど、ホント、マスコミとそれに類似したものの『常識的な標準モデル』というものから離れないといけないと思う。多様であるのが当たり前であるし、それを平均化することのほうが罪深い。多様であるから、多様な対処がある。それが遺伝子的アルゴリズムであるし、特に脳の研究では第1次世界大戦の戦傷者の研究がずいぶん反映されている。
 粗忽でない方がいいとは思うのは当然だ。だが、人間は常に悪くなる可能性がある。マーフィーの法則のように、つねに悪いことはおきてほしくないときに起きる。
 私は、そういう人間というもの、そして人間以外の多様性をどうやって作品にするか、一時期悩んだ。そのなかで、極端な例としてシファとミスフィを作った。彼女たちは強い。人間の考え得る存在で最強を目指し、いまやダメージ回生システムまで装備した。
 しかし、それでも彼女たちの幸せは、普通の人とトレードオフなのだ。


 私は、その姿をドラマとして描くことに一生を捧げようと思い、ここまできた。
 相も変わらず非力だけど、でもピラミッドは頂上から造られはしないし、誰しもはじめは初心者だった。偶然の巡り合わせでいいこともあったけど、今はそれで苦しむこともある。
 でも、その巡り合わせを含めて、私はそれで良かったと思う。
 もちろん、その上でも、許せないことはまだありますが。