ユキさんすこしずつ復旧

 やはりお出かけをすると疲労してしまう。でもお出かけは楽しい。楽しいけど疲れる。


 そういや、出かけた後に疲れたと書くと出かけさせた人が悪いように思える、などと言いがかりを付けてきたのがいたな。
 まあ言いがかりはつけられ慣れているけれど。事実疲れるものは仕方がない。それをそう解釈されたらなにも書けなくなる。
 あと、日本語を乱している、などという言いがかりも受けた。
 金田一秀穂先生は『正しい日本語』と言った事があるだろうか。言葉に通じれば通じるほど、正しいとか間違っているという判断をする主格に疑問が生じる。何を持って正しいというのか。それは言葉というものの生命性や世界の広がりを何も知らず、言いがかりと揚げ足取りのためにする話だろう。全く持って言葉を真剣に考えたことのないジジイが若者に言いがかりを付けるために小理屈を付けるレベルである。


 言葉はかわっていく。世界が新陳代謝していくのだから、言葉も新陳代謝をする。それは当然のことなのだが。
 そういや、私は学生時代の国語の成績で10段階評価の10以外、5段階評価の5以外がなぜあるのか、わからなかったな。
 言葉以外のいろいろな仕事をして、ああ日本語の不自由な人がどっさりいるんだなと思った。まあ、そういう人もウェブでクダをまける時代なんだから、ウェブなんてその程度といわれるのだろう。


 mixiもそういう規約違反とかどんどん出てきて、互いに敬意を持ちつつの対話が出来る場なんてのはどんどんなくなっていくだろうと思う、と書いたら火が点いたように自由だの突然変異だのと言い始めたのがいた。まあそれはそれで良いのかなと思ったけれど、どうやらその人は規約違反であったようだ。往々にして本当のことを言われると偽っている人間は耐えられず必死になるという例だろう。
 まあ、こっちもパターンを学習してきて、10年たって、まあどうしようもない人々、箸にも棒にもかからない人ほど、ちゃんとまともな道を歩いているこっちを看過できないのだろうなと思った。ほんとうにそうだ。


 それと、勘違いしている人が多いこと。
 プロとは何か。
 金をもらって生活している人がプロなのなら、宝くじを当てて金持ちになった人は宝くじのプロか?
 そういう目先の赤字黒字の経済の話をしていると、本当の道、極めるべき道を見失う。
 文章で食べていくのがプロなら、詐欺の『円天』とかを褒める文章を書いていても、プロだと言い張れるだろう。


 本当のプロとは、どんな境地に陥っても、あきらめないことだと思う。
 そして、どんな状態でも、そのことをすることを忘れられず、どんなに時間がなくてもそのことを考え続けられるのがプロだと思う。
 私は物語を書く道を選んだ。それもプリンセス・プラスティックという世界を見つけ、最近ではその世界が夢に出て、スーパーコンピュータが演算する高次元世界のCGのようにリクツの整合性が見える。
 こう言うとき、私に数式で表現する力があればと思うが、それはない。
 だが、ほかの表現で描くことが出来る。
 それを私は選んだ。
 文章はそのための手段であり、手段はほかにもShadeのパースとか、絵とか、よねでん線とかの鉄道模型や1/700や1/150・144の模型も手段である。
 一人祭りというか、一人で世界を表現する。それを私は追求してきた。
 ユキさんがそれに加わってくれたのは幸運だけど、私は文章が上手下手ウンヌンとか、そういう批判には全く関心がない。
 第一そんなけちを付ける人々に、けちを付ける資格などないのだ。
 本当に文章をわかる人なら、文章が下手なんて一番程度の低い批判などしないだろう。それよりも批評として高度な世界が広がっていることは、文学を、文芸批評をやってきた人間なら常識として知っているだろう。
 わたしはそれにも関心がない。私は私の書きたい世界がある。そして、それを書く方法として、ローコストな手段として文章を、効果的な方法としてShadeパースを選んだ。ほかにもflashとか、まだまだやりたいことはある。
 それに全てをつぎ込んで、むなしいと思うことは、実は無くはない。正直、時々むなしくなる。
 それは私がまだ人間だからだ。
 でも、むなしくても、心の力が戻ってくれば、またそれを注ぎ込むのである。
 見返りも名声もどうだっていい。経済もほかの仕事で収入があれば、別に金持ちになりたいとは思わないし、金持ちになれるならその金を表現に投資する。
 詰まらぬ言いがかりは未だに続いている。でも、それをされればされるほど、私はちゃんと真芯を書いているのだなと確信するだけである。
 本当のことは、強い。しかし、金にならない。それが世の中だと思うが、本当にそうだ。
 嘘を言い張ることは金になる。黒を白と言えば、それが仕事だと思う人々も多いし、それを平然と出来るのがプロだと勘違いしている人は大勢いるし、それが今の狂った社会を作っている。
 罪人を無罪だという弁護士に限らず、安いものを高く売りつける人々、わかってもいないことを言葉で塗り固めて売りつける人々、つまらない映画や小説を褒める人々は、その姿を突きつけられると耐えられないのである。
 それにおびえるからこそ、誰かがミスをして、自分の付いている嘘の罪を滅ぼすためにその人を批判する。今のウェブでの炎上なんてのは全く持ってそういう代償行為にすぎない。
 別に他人が何をしようと自分に何の関係がある? 自分がけなされたとか言っても、別に本当に自分のやっていることに自信があるのなら、全くダメージもないし、そんなことにかまうより、自分のやるべき道を追求するほうがずっといいはずだ。それが道を究め、真実を追究し、真の表現を、自分のやりたいことをやるという事だろう。
 政治家や芸能人のスキャンダルも、だからどうだというのだ。彼らは本来的に嘘をつく仕事をしている。政治家は国民に不利益な判断もせねばならない。増税も言わねばならないときがあるし、それを言いくるめる必要もある。芸能人も自分の価値を実情とは別のところに作っていく仕事である。芸能人は仮面をかぶることが仕事である。
 それを暴いたという人々は、王様はハダカだという少年どころか、皆がハダカなのに王様だけがハダカだ、といううそつきである。


 もちろん、そういう嘘は職業的、というよりも免疫的につかねばならないのが生命でもある。生命が全ての暗号、セキュリティを失うのは免疫疾患であり、死につながる。皆免疫という暗号を使って自己を認識し、他者を拒絶することで自我を保っているし、生命としての機能を保っている。それもまた当然の話である。
 しかし、私はその生命すらも削って本当のことを突き詰めたいと思う。
 プリンセス・プラスティック世界はシファとミスフィという、ミリタリーの世界で実現したドラえモンというところがあるが、しかしその背景にはそれを構想し、設計し、作り上げたさまざまな天才たちがいる。そして、その天才たちに向けて、未来を託した数々の現代の天才がいて、過去の天才もいる。
 たとえば自殺したアラン・チューリングとかの暗号関係の数学者や、菅原道真などの不運だった人々もそこに入る。
 そして、現代と近未来の範疇で、実現しかかっている電気自動車のドライバーの柏ナオキもいる。この柏ナオキはリサイクルビンででてきた柏刑事とつながっている。
 そしてナオキの在籍したワークアーツは、『抜き身の刃』で活躍した人々がいる会社でもあり、それは『紫焔−9000億円奪取』の真の目的を果たすための会社でもあり、そしてそれは22世紀、プリンセス・プラスティックの時代になって究極のシステム開発会社としてシファ級BN−Xのプログラミング企業となるし、世界の生命の秘密ソノモノであるKey Of Goldをあつかう近江秀美もその会社に一時在籍している。
 そしてその柏ナオキの先輩の同級生に、直方怜子という女性がいる。彼女は航空自衛隊で2人目のFIパイロットであり、その後テストパイロット研修を受け、日本独自開発の戦闘機の開発を指揮する空将にまで進級する。
 その彼女を指導したのが磐田海将補で、彼は横須賀に住みながら市ヶ谷指揮所に勤め、自衛隊情報本部の基礎を作り、第4の自衛隊とも呼ばれる情報本部の精神を作りながら、定年後は癒着を嫌って地元のスーパーの駐車場の管理人をしながら、時折救いを求められて事態を打開する。
 そしてその打開策を実行するのが大倉瑚珠である。リサイクルビンで警部補であった彼女は警部に進級し、そして首相官邸の補佐官として活躍する。その瑚珠を支援するのが、そのリサイクルビンで上司であった鈴谷警部である。鈴谷は最新作では公安部長となっている。そしてその二人に加わった竹カナコ巡査長の母親は防衛庁装備局長であり、その後防衛省事務次官となり、磐田将補を支援していく。


 このすべてのつながった世界を、私は書いている。少なくとも平安の道真の隠された活躍を描いた『道真異聞』から、時間の終局と始源に挑む『プリンセス・プラスティック/ドロップディメンジョン』で書いている。実に3000年、びっしりと詰まった世界である。


 その世界を表現するためと、そしてその作業で自家中毒にならないように模型をやったりしている。
 全てはつながっている。そして、それを私は望んだ。


 実は内心ここ数ヶ月ウツが入っていたのだが、今はこう思う。
 プロだのなんだのという言いがかりには関心はない。私がプロであるかどうかなんてどうだっていい。
 ましてや、新人賞を取って文壇を体験してみたい、なんてのは、いわゆる旧来の嘘を付く人々の罠にはまっているように思えてしまう。
 そんなことで小説を書くのなら、いずれ小説に飽きてしまうだろう。
 文壇など今は存在しない。エセ文壇としてひたすらぼったくりの世界が広がっているだけだ。
 小説を書くのは、名誉や金を得る手段としてはあまりにも効率が悪いし、ましてや名誉と金の代わりに嘘を書かざるを得なくなり、小説で書けること、書ける世界を狭めてしまう。
 そんな入学試験、就職試験のように新人賞を思う人々が多いから、どんどんそういう賞の受賞者のレベルが下がっていく。
 入学も就職も要らない。
 文章を書くには資格など要らない。
 唯一、魂と、命をかける本気さだけだ。


 ぶっちゃけた話、そういう試験感覚で文学賞を狙って、もし取れたとしても、決して長続きはしない。
 文学賞は昔は地位を与えてくれた。
 今の既存の文学の世界は、文学賞を取った人でさえも労働者として文章の創作や探求ではなく、生産や製造を請け負う下請けとしてしか扱わない。


 嘘だと思うのなら、文学賞を一つ取ってみればいい。
 私は何人ものそういう人々を知っている。
 そして、一度閃光のように得た名声、受賞という名誉にすがりつき、プロであるという名誉を守るために、嘘をつき、真実におびえて暮らしている人もいる。
 自由は往々にして不自由の中にある。


 私は、時間の自由を失った。
 しかし、今、一番の自由を手にしている。
 好きな世界が書ければ、ほかのことなんかどうだっていい。


 私に、脅しは利かない。


 もうそろそろユキさんが夕食の後のお休みから起きてくる。
 今日は一つ捜し物をして、出てきてよかったのだが、その後ちょっとウツになったようだ。同時に低血糖気味でもあったらしい。
 医者でも看護師でもない私に出来ることはほとんどない。
 ただ、無用に動揺して不安がらせないことだけが大事だと今は思っている。