宰相の重みと靖国参拝・英霊の重みは靖国だけのものではない

 気楽で良いなと思う。小泉8・15靖国不参拝について、威勢のいいことを書くひとが多い。公約破りだとか。
 だが、一国の宰相として、一億国民の運命をおもんばかり、マスコミとは別のルートで提供される情報で事情を考えねばならないのが宰相である。はたして威勢良く靖国に参拝し、その後の政局で岡田民主党みたいなどうしようもない政党に国民が牛耳られるとしたら、いったいどうなるのか。
 今年の8・15には行かなかった。ただそれだけである。別の時にまた靖国に行くかも知れないし、英霊を祀ることは別に靖国だけの特権ではない。靖国にも行かれない地方の遺族や郷里の若者も、英霊がなぜ英霊と呼ばれるのかを認識すれば、なにも今年マスコミのマッチポンプの餌になりに行きに靖国を訪れることがそれほど得策とは思えないだろう。
 私自身はというとかなり過激で、ぶっちゃけいっちょ平壌のジョンイルを爆撃してから戦果報告に靖国を訪れるべきだとすら思っている。
 戦争は悲惨だというが、繰り返すけど、世の中には憎悪に狂って相手を悲惨にさせたいという人々もいるのである。戦争の悲惨さは負けた悲惨さである限り、世界に共感を生まない。最大の皮肉がパキスタンの核実験で『私たちはヒロシマナガサキにはなりたくない』とのパキスタンのコメントだろう。
 国家というものは残酷だ。暴力装置でもある。でも、そうでなければ一億国民を守れないのだ。その判断は非常に難しいものであり、それは戦史を見る中で将帥から宰相まで子細に検討すれば、あの戦争がほぼ不可避であったし、回避できたといってもそれは後知恵に過ぎないのだ。
 その後知恵に批判されようとも、彼らはそれを覚悟して散っていった。『わだつみ』は出版社の中でもそれぞれバージョンがあり、検閲があるらしい。それだけ汚いのが今のマスゴミである。そして、元々戦争不可避と不安を煽ったのもマスゴミである。
 『誰がこんな戦争始めたんや』というドラマが今度テレビであるらしい。しかし、一国の運命は台所感覚では御し得ないのだ。勝てば勝ったで提灯行列、今で言うサッカー日本代表の勝利を喜ぶのと同じスポーツ感覚だろう。とうてい我々一国民にとって、この日本の国がどのように戦略を立てているかは分からない。拙著でよく出てくる磐田将補のような自衛隊や公安調査部とそこからの内務官僚系が考えているのかも知れないが、それは個人では敵わない次元で考えているのだろう。
 だが、民主主義を甘く見ては行けない。よく学会票とか郵政族などと言うが、選挙の結果は、少なくともこれまで私が投票してきて出た結果は、意外なところもあるけれど、決して衆愚ではないと思う。衆愚はマスゴミであって、投票に行く人々の1票は、結果ちゃんと日本の道筋を示しているのである。
 頭に血が上ると『なぜだ』、と思うかもしれないが、じわじわと無責任勢力を放逐する方向に向かっていると私は見ている。もちろんその方向への変化が遅いと思うかもしれない。だが、変化には時間が掛かる。そして何よりも、国民はマスゴミにインタビューという餌をやらないまま、無言で1票を投じる国民はそれぞれ聡明なのだ。
 思う通りにならないから衆愚だのというのは愚かである。思う通りにならなくても、そこで現実を再分析し、戦略を立てなおすのが政治とのつきあい方であろう。
 頭に血を上らせたままではだめなのだ。分かる人は分かっているだろうけれど。ちなみに私は既に衆院選の結果起きることをすでに想定している。それがSFであり、ポリティカルフィクションでもあるものを書いている私の仕事だ。
 どっちみち、どの政党が取ろうとも、良貨は悪貨を駆逐するだろう。それが一気に行くか、それとも本当にどうしようもない悪貨である醜態が晒されてからかである。
 政治空白を作ってはならないなどと亀井静香は言うが、もうこの人は死に体だと思う。それに、政治の空白があってもその合間で良からぬことができないように法律ができている。それに、私の政治の面で嫌いな中国でも、変化は数年単位ではなく、数十年数百年かかるものだといわれる。
 気が遠くなるような歴史を、我々は生きているのだ。
 不満をぶちまけるのがウェブかもしれないが、冷静に見れば結果はどっちに傾こうとも結論は同じだ。ただ、それが誤魔化しの数会わせ政党に徹底的に恥辱を与えて再起不能にするか、それとも妥協政党の群れの中ですこしずつ変化するか。
 その点で、今回の選挙は長い目で見れば、別に慌てることも危機感を持つことでもないと思う。信念に従って粛々と投票すればいいのである。
 世の中に失策は確かにある。だが、それも国家百年の計で考えれば、大きな流れの中のちょっとした乱流でしかない。
 マスゴミは読者を不安にさせればさせるほど儲かるという基礎原理があり、マッチポンプ体質も相変わらずなのだが、我々は今回の選挙で、公約どうこうといったマスゴミにもできる程度の批判で血を上らせず投票するしかない。
 その結果、何人もの人が死ぬかもしれない。それはわからないし、追悼はできても、その危険ぎりぎりでせめぎ合っている国際情勢は国民が判断できてしまうほど生やさしくない。せいぜいが後知恵で批判することだけである。
 だが、その票決に従い、国家に身を捧げた彼らを冒涜してはならない。彼らは皆、敵国に罪人呼ばわりされたが、皆、日本という国を思いつつ、そのなかでできてしまった流れに従って国家を守った英霊なのだ。
 始めに戻るが、靖国参拝がなくとも、英霊を祀ることはできる。靖国だけが英霊を祀っているわけではない。地方それぞれに忠霊塔もあるし、戦跡を訪れることもできる。なにも今靖国に行ってマスゴミに餌をやり、マスゴミおきまりのアジアの反感(とはいってもいつもの北朝鮮・韓国・中国だけだが)報道で国民の財産である電波にのせる取材力の不足、ネタの不足を埋めるのにつかわれるのは英霊も望まないだろう。
 靖国というと血が上ってしまう人が多いようだ。私も上りかけた。
 だが、英霊は今もその思いは日本の国土に残り、我々を守ってくれている。まさしく日本は八百万の神の国、思いも魂も不滅の国なのだ。喧嘩を売る必要はないが、しかし英霊を安らげるには方法は一つではないことを忘れてはならない。
 私もいずれユキさんを連れて靖国参拝に行こうと思っている。千鳥が淵には行ったことがあるのだが、あそこは未だに無念さを抱いた魂が台風のように渦巻いていた。靖国はどうか分からないが、行くつもりである。
 そして、戦争に行ったり、戦災を受けた祖父・祖母の苦しみと、それでもなお私につながる命のリレーを絶やさなかったことと、同じようにリレーされてきた同世代のことを考え、心穏やかに追悼しようと思う。