衆院選投票日

 私とユキさんは投票を既に済ませている。ユキさんも私も労働。
 今朝、避難ハシゴの点検でちょっと無理な早起き。日曜の9時はつらいよ。
 起きてコーヒーを飲み、仕事へ。
 
 しかし、大石英司さんの言うとおり、選挙戦を戦った人々はご苦労だったと思う。党派の壁を越えて、ご苦労様と言いたくなる。あれ大変だもの。癇に障るような主張をした候補も、それなりに自分で日本の未来、我々の未来を考え、必死に訴えたのだと思う。街宣車が五月蠅いなんて山形先生は言うけど、山形先生はいつでも日本を捨てられるから高みの見物なんだろうな。私のような人間は日本の中でしか暮らせない。でも、ほとんどの日本人は海外移住なんて考える余裕もないだろう。山形先生も、そういうライフスタイルの自慢みたいなので反感を買っていることに気付かないところはやっぱり偉い先生だからだろうな。
 それに比べて、湯河原のあの人(フィンランド生まれの人)なんかは、国会への出勤は東海道本線各駅停車、昼食は愛妻弁当、月の生活費の足りない分は自宅裏の家庭菜園で補充という苦境ながら例の党のごたごたで繰り上げとなって議員となり、国政で頑張っている。例の党が嫌いな私であるが、でもあの人はフィンランドから日本に来て、日本を愛し、日本のために参院議員にまでなった。主張が違うとはいえども、日本の行く末を真剣に考えているという面では同じ地平に立っている気がして、選挙区が違うとはいえども、応援したくなる。
 こういう素朴な次元で意見をくみ上げる努力を、朝日新聞やいわゆるデジタルメディアは疎かにしているのではないだろうか。特にデジタルメディアの場合、日頃PCに向かって雑談できるような人々は世の中のほんのわずかである。ほとんどの人がPCに向かう暇もなく働いているのだ。そう考えると、デジタルメディアというのは、まだまだエライ人と暇な人の占有物だなと思う。そういう状況は携帯がそのうちフルブラウザなどでPC並みの機能を備え、働く人がわずかな時間で参加できるようになっても、傾向的には同じだと思う。
 その点、本物の選挙は強い。本物であるだけに重みに格差があっても1票は1票、なりすましもアノニマスもできない。毎回思うけど、選挙でどういう結果が出ても、やっぱりそれは日本の状態なのだ。小選挙区制をいくら批判しても、それは病気をCTスキャンで見るかMRIで見るかレントゲンTVで見るかぐらいの差であって、複雑な社会の意見を集約するという面では元々が複雑なのだから選挙制度を云々しても複雑な意見を複雑に採り上げ、それを最終的に当選というひとつに集約する、一種の乱暴に近い制度なのが選挙なのだ。1:99だろうが49:51だろうが、勝ちは勝ち、それが投票である。
 でも、選挙自身は乱暴だが、でも一度決めればそれから後変えられないわけではない。当選した議員に意見を言ってもいいんだし、どうしても気に入らなければ衆院は解散を求めることもできる。参院だって永遠にその候補が当選するわけでもない。イヤなら落とせばいい。選挙とはそういう有限のものなのだ。
 だから、どういう結果が出ようと、それは今の日本の姿と受け止めるしかないし、結果が出た後で日本の姿が選挙結果と乖離していこうとも、それはわからないことだ。ただ、少なくとも自分の思ったとおりにならないからと選挙の値打ちまで批判するのはおかしい。選挙は選挙以上でも以下でもない。だが、一番マシな方法だし、そのマシさについてはまず一番だと私は思っている。
 結果があと5時間後に出る。真面目な意味以外でも楽しみな選挙であるが、たしか明治の昔、福沢諭吉米大統領選を見て、お祭りであると書いていた気がする。マツリで良いのだ。マツリゴトなのだから。声の大きい人、エライ人ばかりが意見を言えていたこれまでの日常に、我々市井の人間が小さい声ではあるが意見を表明できる大事な日である。
 私としては、4年前の9・11が世の中を変えたように、今日という日がまだマスコミを中心としている言論界に強烈な衝撃を与えると思う。
 4年前は繁栄を謳歌しながらテロリストが密かに始めていた多数への憎悪によるテロを、知りつつ無視していたこと(オウムサリン事件も、クリントンによるアフガンへのミサイル攻撃もみんな忘れていた)、多数の良識がもろいものだったこと、特にみんな平和を愛している、という生ぬるい世界観が実はどうしても生じてしまう貧富の差によって打ち砕かれてしまうものでしかなかったことが明らかになった日だった。全てがあの日、崩壊したのだ。
 今年は、どう出るか分からないけど、言論界、とくにマスコミとマスコミになりかけのデジタルメディアにとって厳しくなりそうな予感がする。もう『みんなそう思っている』式の感覚は許されないことは既にはっきりしている。なにがいいことで、なにがいけないことかは自分で判断せねばならない。マスコミもデジタルメディアもあてにならないと私は思っているが、おそらくそれが明らかになるだろう。一部のマスコミは極端な言説で世論を誘導しようとしているけど、それもまとめて票決されるだろう。
 特に、2001年は平和維持、安全保障のための『思想の戦い』の始まりだった。テロとの戦いは、軍事的な戦争ではなく、思想の戦いなのだ。すると、2005年は、もしかするとマスコミやデジタルメディアの声の大きい人が現実の社会の代表になってもいいという時代の終わりとなり、一人一人が影響を冷静に判断する、万人による『大衆』という虚像との思想的な戦いの始まりになるのではないか。つまり、思想がようやくマスコミの道具ではなく、個人の生き方の問題になることを象徴するのではないか。
 その点で、9・11という日は2001年9月11日とともに、2005年9月11日もまた記憶に残る日になるのではないだろうか。それを検討するのは未だ早いが。