自然の実在と受容理論

 ここ数日悩んでいた問題。
 実はこれは時空潮汐力特等突破戦闘艦シファ・ミスフィを描いている時点で解決しておかねばならなかった問題なのです。
 以前は自己組織化と遺伝的アルゴリズム(GA)とエヴァレット解釈を組み合わせた。
 でも、最近また話題になって、仕事の間に考えていた。
 その結果、今、自然の実在というのは特異点じゃないかと思いさえしている。つまり、自分が生まれる前の歴史も、生きている現在も、死んだ後の未来も、結局は文脈があるから認識できているだけで、その文脈の辻褄さえ合ってしまえば自然の実在は特に問題としなくても良いんじゃないかという考え。全ては文脈と関係性であると。
 そうすると、実在は全て感覚というあやふやなものになり、実在していると思いこんでいるだけになり、実在は蒸発してしまう。
 それでも我々は実在を感じてしまう。それが特異点だと思う。
 自分の実在を疑うことはできるけど、でもその疑っている自分は実在していると意識せずに思っている。そして、それも疑っても、結局自分というのは無限に後退していく。
 そこに第三者の問題というものがあるんじゃないかとも思っている。自分と自然と二項対立しているけど、結局そこに第三の視点を考えたら、AIでいうフレーム問題も記号着地も結論できてしまうんじゃないかな。
 ロボットが自然と自分と二項対立するから解けないわけで、第3の存在、プログラマというか育ての親がフレーム問題を発生しかけているロボットをなだめてしまえば解決できちゃうんじゃないかと。
 素人の類推による考えなんだけど、でも禅にしろなんにしろ、第3のものというのが必ず解決として出てくる。それに、GAの考え方で統合すると、人間の考えも自己複製子であると考えれば、フレーム問題という問題も、私がしつこく描く親殺しパラドックスも自己複製子であり、それはその自己複製子のまま考え込んでもGA的には個体の獲得形質でしかない。GAが評価>淘汰>変異のサイクルを繰り返す中で評価を必要としている以上、やっぱり検討を一緒にやってくれる誰かが必要じゃないだろうか。そして、その誰かは自分の内・外の二項対立のなかで、内側と外側の界面、カオスの縁のような存在だと思う。
 天文の三体問題が完全に解けないように、この意識の三体問題というのも、そのうち議論されると思う。物理で言う観測者問題というのもよく考えればこの意識の三体問題に近いものがあるのではないか。
 第三の存在、それはデウスエクスマキナだと批判されてきただろうけど、カオスと秩序の界面、カオスの縁でおきる突然変異は、未だになぜ起きるのか解明されていない。そこで第三の存在は、あると思うし、その存在は自分と他者の間の界面という意味以上に、自分と他者の間で共有される存在だと思う。その存在を図式を明確にするために無視してきたけど、いずれ検討せねばならないと思う。