素人科学はトンデモだけではない。

 今、科学とトンデモとよばれるもののなかで、そのトンデモを批判するあまり、クリエイティビティを阻害している動きがあると思う。
 たとえばアインシュタインの宇宙項の話も、よく考えれば自分の数式に不安があったために持ち込んだトンデモだけど、でもそれはそれで今、宇宙の状態を検討する時に生かせるなんて話は10年ぐらい前からあるし、彼の『神はサイコロを振らない』も結局はサイコロを振るという量子論をトンデモと感じたと言うだけで、現実には量子論はどんどん深まっていくし、量子論でなければ解けない問題が今解かれている。相対性理論だって昔から常識だったわけじゃないし。
 トンデモにも一分の魂というか、トンデモの人と、それを批判する人が、なぜトンデモが発生したか、互いを尊重しながら検討できれば、それは創造的な営みになるんじゃないかなと思う。トンデモという言葉は批評には便利だけど、それ故の危うさは自覚しないといけない気がする。自分でトンデモのどこがトンデモかと考えることをやめたら、それはそのうち大きな罠にはまると思う。
 SFというのは、そのトンデモと常識の間の、微妙なまさにカオスの縁に成立するものだと思う。それは読者の常識を探り、その常識という秩序と、トンデモやオカルトと言った奇想というカオスの縁だけに存在するのではないか。
 最近読んだ本では、そういうことを感じる。難しいけど面白かった、理解できないけど面白かった、というのはそのカオスの縁を描けているからなんだと思う。
 そこら辺で私の受容理論の話も出てくるけど、それはまたそのうち。でも、すこしずつ話はまとまってきています。
 他人の考えを自分で咀嚼するのって、時間も労力も掛かるけど、面白いなあ。もっと面白いのは、その咀嚼した考えを自分の中に生かすこと。記号論的批評って言うのは、そこで秩序としての批評でもなく、カオスとしての作品でもない。その界面で成立させるものだ。そして、批評と作品は実は地続きなのだという当たり前のことなんだなと思う。
 本当の批評は、実際自分で作品を書いて、自分ってどうしようもないな、と思った人間だけにしかできない、そんな気がする。そういう苦しみを経ないから、規範批評とか印象批評とかに堕してしまうのだ。
 それと、文学論をぶつ奴は小説を書けないと言う人がいるけど、文学論が規範批評や印象批評になっている人間はそりゃ描けないと思うけれど、本当にいい作品を書ける人は、しっかりした理論を持っているし、批評もできるものです。