『正しい日本語』ブームについて

 鈴木健二の気配りのススメで正しい日本語。でも、本当に気配りするんだったら、他人の言葉にケチつけないんじゃないかな。よそ様のことにケチを付けて、自分が正しいといいはるそのどこが気配りなのか分からない。そんなに正しい日本語使いたければやまと言葉だけ使えばいいじゃん。仮名文字も使うのは邪道では。漢文で読み書きすればいいじゃん。
 結局言葉は生き物というか、コミュニュケーションの道具にすぎないものであって、円滑にコミュニュケーションができれば、形式にとらわれるのはただただウザイだけだし、それにシチュエーションとの関数で使う言葉を選ぶのがその人なりの相手に対する敬意で、その敬意を素直に受けようとするのが気配りであって、第一間違った日本語と正しい日本語を判断するあんたは何様だよと言う気になる。言語学とは、実際に使われている言語の変遷を調べるものであって、言葉の『見張り役』なんて不遜な立場ではないはずなんだけどなあ。
 それよりも言葉で表現できる領域を増やすことにこそ言葉を使うべきであって、新しい概念には新しい言葉を使うべきであり、敬意の概念も歴史によって変わっていくのだから、いちいち『正しい日本語』なんてケチをつけるのは言葉というものに苦しんだ経験の乏しい方の幼稚な詭弁だと思う。言葉は無限にあるようでいてとても少ないものなのだ。
 ちょっと前までは『ありがとう』という言葉でさえ恥ずかしい言葉の使い方だと誹られていたのだ。結局、世の中が高齢化して、動態を考えるべき日本語のありかたについていけない頭の固い人々が新しいものを拒絶する道具を探しているだけのように思う。
 世の中は新しくなっていくものであって、新しいものがいくら嫌いであっても、新陳代謝と世代交代で世界が作られていく以上、言葉の世界の激しい新陳代謝に異を唱えても仕方がないのでは。