センチメンタリズムに頼るな

 現実に中曽根康弘でさえもセンチメンタリズムである。ましてや民主党の旧社会党勢力とか関口宏とか、もうどうしようもないセンチメンタリズム。
 非核三原則、集団自衛権、GNP1%枠、靖国問題など、そういった問題を問題化させたのは考えてみれば中曽根政権の時だった気がする。
 防衛力の見積、というところで、決定的にポリシーがないのが日本のこういった政策サイドのなさけないところである。現実には防衛庁側が発注するからまともだけど、本来のシビリアンコントロールであればもっと上の責任ある人々のセンチメンタリズムは廃するべきだろう。
 朝日新聞的人々の間では、北朝鮮問題では、国家主権というものを日本には認めず北朝鮮に認めるというおかしな状態が通っている。靖国だのなんだのは日本の国家主権なのに配慮せよと言い、憲法前文で排除を決意しているはずの圧迫と隷従、専制を『北朝鮮の国家主権だ』と放置する。
 そして、イラクにも国家主権があったなどという馬鹿もいるからビックリする。国連安保理決議を知らないのか。それをイラクが何度違反してきたか。
 北朝鮮にしろイラン核開発にしろ、けっきょく説得は軍事という強制力で裏打ちしなければ無力だと思わされそうである。
 ついでに書いておくが、アメリカをダブルスタンダードだと言っているやつ。これまで世界がシングルスタンダードだった時代があったか? と問い直しておく。いつの時代も現実は理不尽だ。理不尽だけど生きていくしかない。
 現実には、こんな事をいいながら、私もセンチメンタリズムに涙することもある。
 『味いちもんめ』の話で、主人公の後輩の追い回しの板前に、料理を食べさせてくれと頼んでくる男がいる。なんでも、その後輩が南方戦線での戦友に似ていたらしい。
 もちろん後輩は追い回し、そんな料理を食べさせるなんて事はまだまだできない。
 しかし、事情が事情なので、その追い回し君をカウンターに出す。
 すると、男が語るのである。
 食糧もなんもなくなった南方戦線、時間があって空腹なので、戦友が『俺板前だったから、料理してやるよ』と料理屋のふりをする。
 鱧は鱧切りで一寸に十五回包丁を入れなくてはいけないとか、そういいながら大人のママゴトをする。
 だが、彼は言う。俺、まだ追い回しなんだ、本当に鱧切りをできるような修業をしたかったんだ。でも、戦争に取られて、もうできないんだ、と。
 一緒に生き残ろう、と慰めた戦友。しかし、その次の日、彼は戦死した。
 いや、日本には徴兵制はない。今後も徴兵制なんて今時の戦争に不必要な制度は日本ではないだろう。
 だが、想像力があるせいで、イラク北朝鮮にも、徴兵で取られた兵隊さんがいっぱいいただろうなと思うのだ。もちろんセンチメンタリズムである。戦争は個人の夢を吹き飛ばしてしまう。
 一人一人、かけがえのない命を、夢を抱えている。
 だが、それでも『徴兵されなければ強制収容所送り』の専制国家にも夢は抱けないと思うのである。
 戦争は悲惨だ。でも、それを日本の平和教育では、火事があった時に火事をどう消すかを教えるのではなく、『火事が起きない今を喜ぼう』という教育しかしていない。そんな馬鹿な教育なのである。
 火事をできるだけ小さく収める技術こそ必要なのだ。
 平和が好きなのは私もである。
 しかし、平和は戦争の逆ではないのだ。
 骨の太い平和教育、それは戦争を知ることである。今の平和教育にはなんのメリットもない。それを指導的な役割にある人たちは、ちゃんと言うべきだ。