ティザー広告と、物質以外のこの世の中を支えている大事なもの

 ティザー広告って、いらんと思う。つか、こういう方法って、せっかく広告やサイトを見に来てくれた人を追い返すようなものでしょ。注目度が上がると勘違いしているプロデューサーがいるみたいだけど、企業とかサイトのイメージや信頼ががた落ちだよ。
 特に武富士のダンスのウェブ広告ティザー広告やってるけど、はたしてそんなことが許される企業だと自分のところを思っているんだろうか。あれだけ信頼を失って、それでも武富士のCFってちょっと見ちゃうよね、というか細い一線で企業としての社会的使命を保っていたような企業じゃん。
 消費者金融なんてあるだけ反社会的だよ。グレーゾーン金利もそうだったし。まっとうな金貸しが何であんな馬鹿高い金利を取るのか。
 それだけでムカツクのに、ティザー広告までする。
 なんだか、そういう自分の会社としての自意識がない経営者とかが多い気がする。吉牛にしろ雪印にしろ、食品を扱っている企業だというデリケートさが無かった。
 で、いろいろと吉牛牛肉輸入問題のページを見たけど、確率論で話しているのが頭に来る。確率論と言うけど、それは売る側、見せる側の論理じゃん。
 確率的にほとんどありません、といって信頼を得られると思っているのか。めったにないことだから気にしないで食えと言っているに等しいじゃん。食べ物とはそういう言い訳の確率論じゃなくて、食べ物を作っているという誠意だろう。
 まあ、ここで取り上げた企業以外にもとんでもない企業が多かった。燃え燃え三菱自動車とか、一酸化炭素パロマとか。
 安全というものは、じゃぶじゃぶ金を使いさえすればいいと言うものではない。逆に言えば、コストを抑えても安全は保てる。結局は現場の従事者の意識の問題なんだから。それを無視して、しまいにはコンプライアンスなんて言葉までできてしまった。利益追求のためなら法律を破ってもいいという姿勢を取らないというのがコンプライアンス確保なんだけど、もともとそれは法で罰せられなかったら何をやってもいいという、基本的な倫理の崩壊があるからだろう。
 順を追って考えれば、一人一人の従業員が法を守り、客を大事にすることが、結果的に企業の信頼度の向上、そして利益につながるのだが、それがなんだか最近では信頼度が生まれると、ブランド力などと言って二束三文の商品でも馬鹿高い値段を付けて売れると思う経営者もいるようだ。第一マクドナルドなんて安いだけが取り柄だろ。客単価を上げるなんて、それはお客さんの財布からもっと金を搾り取る、と公言しているようなものではないか。
 経済ニュースを見ていると、今の経済という世界では、客と売り手の間にあるべき信頼やデリカシーがほんと足りなくなっているなと思う。
 確率論を言う限り安全なんてものはあり得ない。なぜなら安全という概念は、一度大当たりを引けばオシマイなのだ。確率がいくら低くても一回事故が起きれば人命が失われたり、とりかえしのつかない事態を招く。完璧は人間にはあり得ないといっても、それは確率論で少ないからよしというものではない。むしろ、失敗したときに『弁償しますから』と言っているうちは何度でも失敗する。それより企業のトップが『申し訳ありませんでした』と率直に謝ったほうがずっといい。
 そう考えると不祥事対応というので見ていると、発表する人間が『副』だったりする企業や役所が目に付く。トップが何のためにいるのか分かっていないのだろう。いやなことを二番手に押しつけて高給を取るトップに民心も従事者の心も離れていくのがなぜ分からないのか。
 デリカシーのない世の中なんだろうな。気持ちとかがオートメーションの機械には入らないと思っているんだろうか。
 オートメーションであろうと何だろうと、人の生きるためのものを作っていると思えば気持ちを込めずにはいられないだろう。それができない。それが無宗教という世界だ。
 どうにも物質というか、心とは別の尺度や概念で考えるいわゆるエンジニアが多い気がする。特に『オレ技術屋だからさ』と言ってる技術屋って、どういう技術があるのか問いただしたくなる。じゃあ技術屋だったらデリカシーが無くても良いのか。好き放題言って良いのか。それをカバーできるほどの技術をもっているとしても、技術的にいくら優れていても、人は心で生きている。技術の製品であっても、心が使うのだ。
 どうにもデリカシーが足りない。
 技術であろうと何だろうと、最終的には心の問題なのだ。唯心なのだ。それが分からない人々が多すぎる。自覚が足りないと言うか。
 今日の東京の停電だって、クレーンを上にのばしたままで運ぶというその神経が分からない。
 ふつう移動時にはクレーンのような用具はきっちり納めて運ぶものだろう。その神経がないところがあきれるしかない。(追記:朝日夕刊に寄れば送電線に気づかずクレーンを上げたという。これもなんだかおかしな話である。どっちにしろクレーンオペレーターとしてあってはならないことだろうに)
 それと、東電の広報。配電システムの表示盤を見ればどこで不通になっているか分かるだろう。それをそのまま広報すればいいものを、発表が遅れに遅れる。結局これもライフライン企業としての自覚が問われる。
 そこで始めに戻るが、武富士はもっと自覚がない。電通とか博報堂やマスコミが消費者金融という高利貸しのカネにたかって、いつの間にかサラ金という言葉もなくなったし、サラ金自殺という言葉もなくなった。
 でも今でも何万という人が金銭苦で自殺している。そのきっかけとなるのが消費者金融であり、とてもチワワを使っている段階でもないし、話せる頼れるなんてものでもない。
 でも今のマスコミは公共の電波を使っているのに利潤追求のために消費者金融のCFの出稿を断らないし、逆にサラ金サラ金自殺の言葉を殺した。
 そして、カネさえあれば何をやってもいい世の中になった。そして、しまいにゃティザー広告なんてものを仕掛けていい企業だと武富士は思い上がったと言えると思う。
 物心両面というように、モノには心が必要なのだ。それがなくなったのが日本の今の無宗教の姿勢があると思う。
 別に教典を覚えろとか、集会に参加せよと言うことではなく、人間として人間以上の敬意を払うべきものがあること、そのものは心のわずかな慢心も見逃さないという事、そしてその敬意を払うべきものが、人に宿ったり、口伝えで伝わっていったりするのだと言うこと、こういう倫理的なデリカシーの問題なのだ。イスラムキリスト教ユダヤ教も政治と結託して勢力拡大にいそしんでいるのでよくないが、しかし世の中は物質だけでできているわけではないという、まわりへの敬意だけでもあるべきだろう。
 逆に言えば、無宗教というのは、最悪の宗教なのかも知れない。
 武富士のページから考えた結果こんな話になったけど、でもほんと、無宗教というのはもっとも醜悪な宗教だと思う。