苛立ち

 なんだか私が時折目にする特定の人々は、苛立ちで常に苛々していて誰かを傷つけないと平静を保てないらしい。
 たとえば、まああのころとは時代が変わったけど、『攻殻機動隊』について、あの時代の成立した歴史的背景を抜きに格好良いと思っている人がいる。
 でも、警察を研究していると、あんな危なっかしい組織に公金を支出しているのがとんでもないし、そこで少佐が処分を受けるけど、結果最後、今我々がいるネットは広大でも何でもない。荒涼とはしているが、ウェブの結びつけるという機能によって内緒話ができない世界になっている。
 あのころ、90年代はまだインターネットも未熟だった。ユーザーも少なく、ユビキタスなんて夢物語だった。ところが今や小学生でさえウェブを使い、センサーの働くものは有機的に統合されてはいないものの遍在し、ユビキタス寸前になっている。
 それを考えると、攻殻機動隊は過去のものだったと思わざるを得ない。特にSACは1のほうは攻殻世界を守っていたためにコンパクトにまとまっていて、歴史的背景を考えなくても成立していたが、2は作者(監督)がフロシキを広げる中で大事なこと、公権力の限界とそれを越える意義、そして公権力の意志決定のシステムと歴史としての必然性に矛盾が起きているような気がする。
 特に苛立つ人々は、制裁を求める。犯人探しを求める。だが、犯人を捜し、どんな方法で処罰しても、失われた生命も時間も戻ってはこない。もちろん刑罰は必要だし、特に私は死刑も存置せねばいけないと思っている。だが、そこに必要なのは歴史を裁くような傲慢ではなく、生きた人間としての心がないといけないのだ。
 坂東眞砂子にも欠けていたのは、その生命を扱うデリカシーである。我々は日々動物も植物も殺さなければ生きていけない。肉牛、鶏、魚から樹を倒すことに到るまで、すべて殺生である。だが、そこに大事なことは、殺生はアタリマエだと開き直ったり、なぜ殺してはイケナイのですかと問題提起を装って鈍感さで押してくることではなく、すべて殺生は罪であり、その罪を背負って生きていかないとイケナイのも命であり、だからこそ、殺生を重ねる相手、殺す相手の死を無駄にしないように、丁寧に優しく扱うことだろう。
 結局、今の苛立つ人々は、本当に命を感じたりすることがないのだろう。死も分からないけれど、命も分かっていない。
 分かることは簡単である。猫にしろ犬にしろ、触ってみれば明かである。AIBOなどでは再現できない精緻さがある。100円のカッターで首を切って壊して命を奪うことはできても、100億あっても首を治し一度失った命を取り戻すことはできない。
 そこで思うのは、ママの愛情が足りなかったというか、人と手をつないだり、人とリアルでつきあったりしないから、想像力がどんどん退嬰しているのではないか。
 住まい一つだって、維持するのはタイヘンである。ましてや集合住宅で意志決定をするプロセスを見ると、それまで親元暮らしだった私には感じられなかったさまざまなものがみえる。ルールを守ること、でもルールを守れなくなりそうなところに陥ること、でもルールをフェアな方法で提案し、ルールを変更すること。それは社会人で観察眼があれば、容易に理解できることだ。
 思うようにいかないから全部ご破算にしてしまえ、というのはテロリストと同じであり、攻殻の素子も、幸いストーリー上で成功するように条件を作っているからいいものの、法学上で考えると、まっとうな法の裁きのほうが正確でうまくいきそうだったりするケースもあるし、警察もマスコミが自らの調査報道力のなさを棚に上げて言うだけで、警察もちゃんと天網恢々疎にして漏らさずではないか。
 そこで士郎正宗攻殻1でああいう決着を作った。その歴史的意義はゆるがない。面白いし、考えさせられるところもあるし、うまい。
 でも、今のキャラクタービジネスは、そういう物語から記号としてのキャラクターを取り出し、グチャグチャにいじってもともとの物語を作った作者の配慮を破壊してしまうのではないか。
 結局、誰かが作ったキャラクターを拾ってきてしゃぶっておいしいという商売の算段でどんどんキャラクターの背負っている背景、意味がないがしろにされていく現状に思えてならない。そして、ないがしろになったところを苛立つ人々が未だに歴史的評価でなく、現実に適用しようとするから頭が痛くなる。