情報としての文章と、文章としての文章

 私は原稿をやっていて、煮詰まって週刊文春を読む。
 なんだかなあ。私も33歳で、私と同じぐらいの年頃の記者もいるだろうけど、なんで文春もこうして文章が軽めなんだろうなあ。私が10代の頃に読んだ文春と味が全然違う。
 なんか軽い。
 どこに原因があるのか考えると、20年前、1980年代の頃30代の記者というと1950年生まれ、戦後すぐである。まだワープロもPCもないし、手書きで書いたり、漢カナも旧文体だったりした時代ではないだろうか。
 なんでこんな重みがないんだろう。自分について省みても、なんだか80年代に書いていた大人の文体へのあこがれが今の10代に与えられるかどうか、というとちょっと考え込んでしまう。
 私を含めて、ウェブなどで書かれている文体は情報であって、文章ではないのではなかろうかと深刻に考える。まあそれでも書いていくしかないんだけど。
 とりあえず、そのうち古書市で古い鉄道ジャーナルとか買おうと思う。鉄道ジャーナルの列車追跡の紀行文は、とくにこの前の急行寝台列車で上野から青森まで行って、朝の青森駅を描写した文章はすばらしく清々しかった。雪の白さ、冷たさ、日差しに溶けるつららのしずくまで見えてきそうな硬質な文体であった。
 今更手書きに戻すわけにも行かないし、せいぜいリズムを学ぶために筆写してみるしかないかも。
 そこで90年代の某ホラー小説の冒頭1章がすばらしく磨き抜かれていて、結局7回ぐらい筆写したのだが、まだまだ足りない。