亀田のなにが不愉快か

 ま、端的に言って、2ちゃん的だからでしょう。小物が集まって、虚勢を張って周りを不愉快にさせることをやって、人を大量に集める。それも小物ばかり。
 で、小物なので集まりすぎたのに怖くなってひっこめる。すると集まった小物どもも『祭り』の終わりが寂しいからと上げたり下げたりしてしばらく騒ぎ、くすぶる。
 何から何まで小物。
 第一、格闘技にしろ勝負事にしろ、勝ち負けのはっきりすることについてあそこまで大口を叩き、相手をバカにするのは見ていて愉快になるはずがない。負けた悔しさに気付く常識のある大人だったら、勝っても相手を思いやるものだ。
 肉体も勝負勘も永遠のものではない。歳とともにいずれ衰えていくものであり、いつか自分も負ける側に回るのだ。絶対に勝ち逃げができないのが人生なのだし、また勝利へ向かう中に小さな負け、悔しさは体験するはず。結局相手を思いやるからこそなのだ。
 だから格闘技では礼を重んじる。単なるケンカでさえも、相手を完全に追いつめてはいけないのは大人なら分かるはずだ。亀田はそれをやらない。要するに未熟な小物なのだ。
 なんだか世の中が格差社会と呼ばれるよりも2ちゃんねる化している気がする。思いやれない小物が起こすつまらないことが増えた。それはそれでスルーしてしまえばいいのだが、マスコミも小物がやっているから騒ぎにする。
 その次元で政治や政策、経済や時事を話題にする。これでまともになるわけがない。まさにバルザックのジャーナリズム性悪説と同じ、2ちゃんねる亡国論である。ちなみに亀田問題をアソコまで悪し様に行ったやくみつるもいずれまた引きずり降ろされるだろう。
 第一やくみつるがちょっと持ち上げられたのは中田ヒデの引退『自分探しの旅に出る』を『30の男が言う台詞か』を評したところでちょっと持ち上げられて、そこで亀田問題に触れただけで、現に亀田が引っ込めばやくみつる自身あげた拳がおろせないみたいに言われている。いやそうじゃないんだけどさ、もう単細胞の小物の多いマスコミになったから、そういう小さいサイクルでしかものを論じられないんだろうな。
 だが、たしかに2ちゃんねるの中には良レスがある。たとえば東証V時回復を記したレスは、どこのスレだかは忘れたが、その日をきっかけに7000円台の株価が上昇しはじめた。また、経済学が禁止された世界というSFを投稿した人もいた。日本で、不況だのなんだのは経済学者が言うからで、経済学者を追放し、経済の経営から追い出そうとする。すると社会はどうなるか。その描写は実に面白かった。
 だが、それに出会うのは難しい。それに、それにたいしてつまらない茶々を入れる小物が多すぎる。中には小物であることをなにか勘違いして、人を不愉快にすることが楽しくてやっているとしか思えない人々もいる。
 まあ、そういう世の中をバルザックは批判したし、80年代のバブルを煽ったマスコミを批判する本を出した人々もいた。メディアが悪いんじゃない、といういいかたをする人もいる。確かに2ちゃんの特徴は匿名性よりも量的過多と同時の過剰な速報性・同報性かもしれない。
 結局、それに対応するにはSNSへの変更でも無理で、結局こういう時代に合わせて一人一人が『嘘を嘘と見抜く』かもしれないが、ある程度我慢をし、堪えねばならないのだろう。大人になるしかないのだと思うし、それは決してつまらないことではない。大人になれば、大人になったことで分かることは増えて楽しいのだ。
 昔、ずいぶんな世界だとそのころのウェブを言ったら、世の中、リアルワールドもずいぶんだ、と言った人がいた。まあ、そういう人はリアルワールドのずいぶんな面にしかあってこなかったのだろう。リアルワールドには、ずいぶんな一方で、深みのある人々が静かに存在していて、それが目立ちはしないが静かな良識として存在していた。騒ぎは所詮騒ぎだったのだ。
 そういう世界観を私は求めていたし、それを私は体験するようになり、それを元に世界構築をして、最近ではその騒ぎと世界の関係を考えるようになったけど、あの人々は結局、今の私と同じぐらいの歳だったのだけど、結局そういう良きものの存在を言えなかったのか、言わなかったのか、それとも知らなかったのか。
 どっちにしろ、ケンカにろくな事はない。
 そのろくな事はないケンカをスポーツにするのだから、スポーツ、技としての格闘技は礼に始まり礼に終わらねばいけない。それができないのは単なるガキか馬鹿だ。
 私はその点で現在プロレスラーの小川直也も好きではない。たしか昔柔道をやっていたと記憶していたが、優勝できなかった結果へのふてくされ方が酷かったし、プロレスラーとなってから、破壊王と呼ばれた他のプロレスラーの死へのコメントも常識を疑うものだった。
 実はそこら辺のデリカシーを私はとても重要に思っている。実はその件でとある人物と大げんかして、その結果とある結果になった。実はものすごく損をした。でも、それでも良いと思っている。
 そういう感受性の人とは同志としてはやっていけないのだ。損をしたとしても、私はそれ以上に自分の感受性を痛めつける生活はできない。それだったら他に職を探す。
 でも、その感受性を活かして、今文章を書いて生活をしている。ありがたいことである。