とにかく謝らせたい人々

 他のブログで、この前の米国牛肉輸入だって、ちょっと書いたらなんだか訳の分からない『専門家』が沸いて出てきて米国牛肉は統計的に安全だとスクラムされて、結局ブログ主が謝罪してたのを見たことがある。
 はっきり言って、そういうところに統計を持ち出すその神経、その気持ちのなさが批判されているのが分からないらしい。じゃあ、綺麗に洗浄したドラム缶1本コンソメスープつくって、そこにスポイトで小便を何滴か垂らして、濃度はわずかですからと言われたら安心して飲むのか?
 結局食の安全というのは純粋な安全性ではなく、安全を図る誠意とモノ作りの志の問題だろう。
 原子力だってそうだ。どうにも確率論を勉強すると志とか誠意とかが消えてなくなる人々がいるようだ。確率でほとんど事故は起きませんよ、という説明をオカシイと思わないから、80年代の反原発みたいな大騒ぎが起きるのだ。
 確率がどうあろうと、当たっちゃったらとりかえしがつかないのである。どんなに確率が低いと言われても宝くじは当たりくじがある。当たりくじがあることが問題なのだ。
 だからこそ、事故という当たりくじを引いても、そこで損害を局限し、回復を図る技術があることを心を込めて説明することが必要なのだ。
 どうにも『異議申し立て』という社会運動の悪しき側面で、異議を言われたら反論すればいい、という図式のなかに確率論とかが混じる。異議を申し立てることはべつになんもいいことではない。担当者出てこいと感情をぶちまけ、戦って何かを得る闘争は結果、地域社会も信頼も全て壊してしまう。
 参加し、合議し、疑問点を出してもどうすれば解決するか一緒に考えるガバナンス、協治が必要なのだ。