悪い軍隊はいない。あるのは悪い指揮官だ(パト2)。

 たまごまごごはん - フィギュアの中国生産ラインについてしらべてみた。
http://d.hatena.ne.jp/makaronisan/20060624/1151245162

 参考になる。『悪い軍隊はない。悪いのは指揮官だ』だったっけ、パトレイバー2で荒川(陸幕)と後藤隊長が話す台詞があるが、中国にも美徳もある。そりゃそうでなきゃ三国志だの水滸伝だの、韓非子だの残っているわけがない。本来の中国は立派な国である。
 しかし、立派な国、立派な人々の上に、とんでもない思考、とんでもない政権、とんでもない教育が載っているから困るのだ。
 あと、資料資料といって五月蠅く南京大虐殺はあったというApemanさん、じゃあ同じ話を私のリンク先の佐藤守さんにコメントすればいいじゃないか。私はそのリンク先の佐藤守さんの人柄を信頼しているんだから、お得意の一次資料に当たれがなぜ適用されないのか。佐藤守さんのブログを見て、さすがと思って私は信頼している。
 本当に論客としてちゃんと議論したいのなら、私を屈服させるのではなく、その根源の佐藤守さんに議論を持っていくべきではないか。佐藤守さんは議論のプロであり、私はそれを聞いてそうだなと思う聴衆に過ぎない。
 たとえが悪いが、ヒトラーが演説して、ヒトラー万歳といっている一般人一人を突然拉致してぎゅうぎゅう問いつめるよりも、ヒトラーに向けて言うべきじゃないのか。もし本当に私の思うことがヒトラー的ならば。
 そこがなかなか卑怯でウェブ左翼というのはこういうものかと分かって大変よろしい。
 ちょっと刺激してみたけど、影響度もないし。アクセス件数も特にのびなかった。
 まあ、だいたいに置いて、すでに愛蔵太さんに要求されていることすら未だに調べないで結果も出さず、次から次へとグチャグチャけんかを仕掛けているそのメンタリティが私には理解不能である。
 同じように、JSFさんももうプチ左翼みたいな生協おばちゃんの小さなサイトを攻撃するの、やめないかな。やったところでたかが知れているんだし。
 JSFさんとかも、もっと叩くならもっと影響力のある左翼ブロガーと戦うべきだと思う。Apemanさんも、私としては私のお金払って得たブログスペースになんでやってきて自分の信条だの宗教だのまで開陳されるのか、非常に損した気持ちを今でも持っている。
 第一、無神論者と書かれた瞬間、ああこいつに何を言っても無駄だと思った。
 無神論者って、神様はいないといいながら、その実は俺様が神様なんだもの。人間には人間を越える人間があり、その上には言葉にしえないなにものかがあり、それが人を感動させたり納得させたりする、という歴史を無視している。
 無神論者、科学的歴史はそれを無視している。まだそういう人たちの科学は別の分野、脳科学とか精神医学の科学から30周ぐらい遅れている。
 だから、ああ、だからダメなんだと思ってたら、なんか例の資料が『発見』されたけれどよく見ると河野談話以前から公開されていたなんて話も出てきている。
 となると、朝日新聞とその研究者はしっかり調べていなかったのを棚に上げて見つけた見つけたと騒ぎ、朝日新聞の整理部もそれが重要だと思って載せたことになる。
 公刊資料すら目が届かない研究者に、歴史の真実など解明できるのだろうか。
 南京では私ははっきり言って虐殺なんかやる暇はなかったと思う。便衣兵との戦闘はあったかもしれない。民間人の巻き込まれた戦闘もあったかもしれない。だが、当時の戦争はすでに過去のオスマントルコだのフビライハンの時代とは違うのだから、虐殺なんかやっているほど悠長なものではない。
 特に日本陸軍将官の働きが戦後教育の日本陸軍戦犯説でもみ消され書けているので調べてみると、南京まで攻めていく日本軍の進軍速度を考えれば、虐殺なんて暇なことは出来ないのだ。
 で、近代軍事の基本だが、前線に出ている部隊でイジメとかはまず起きない。忙しいからである。後方も勝っているうちはイジメも虐殺もない。士気が高いからである。それが、負け始めると全部ダメになる。前線では後退戦なのでマイナス思考と恐怖心から自殺したり逃亡したりと悲惨きわまりない。後方ではもっとひどくて、前線と後方が連繋しなくなってくるので、暇になってイジメなんかやり出す。日本海軍もそうだったのだ。
 あと、研究をしているとか論客を気取りたい人が資料資料と言うけど、思い上がりも甚だしい。資料化できないところに真実があることもあるし、真実と思って聞き取るとインタビュイーがマインドコントロール中国共産党が洗脳として発明した)の影響下だったりする。
 資料があるからといって、その資料を本当に信頼できるのか、どうやって検証するのか。まして国家対国家のマターでそれより上位に当たる組織として国際連盟も極東軍事法廷も機能していなかった。
 『部下を無事本土に帰してくれるのならどんな証言もする』と腹を切った将官も大勢いる。そういう個々のエピソードを拾わず、資料資料と資料第一主義を取る人がいるが、それってケンカで『それって何時何分何秒に誰が言ったんだよ』という口上の小学生のケンカと同じである。
 歴史について議論する、ましてや自分の今につながる人々への敬意がない資料第一主義は人を幸せにしない。そこらへんが、嗚呼無神論者といっている時点で俺様第一主義なんだなと思って透けて見えて、うるさいなあ、よそに来て自分のそんな浅い人生観を開陳するなんて恥知らずだな、とApemanさんについては愛蔵太さんより先に『ダメだこりゃ』と思った。
 まああの頃はコメント欄あけたらどうなるかなと思って実験して、結局ダメだったので凍結したけど、まあ最近は小学生でもコメントをつけられる時代なので、ちょっと地位のある人にコメントをつけると自分がその地位に近づけたような錯覚をする馬鹿が非常に多いようだ。
 まあ、こういう世界が現実世界の徳育とかそういうものと関係しそうで、ウェブってずいぶんな世界ですねと私が言ったら現実世界もずいぶんな世界だと言った冬樹蛉なんてひとが未だに私の名でググると出てくるけど、ずいぶんな世界だからこそ、現実世界ではずいぶんじゃないようになるよう人々が努力しているのはスルーですか、と思い、同時に当時、こんな認識の人が論客なのかと思ってそのレベルの低さと下劣さに絶望した。
 警察官にしろ、自衛官にしろ海上保安官にしろ裁判官にしろ、多くの人がルールを作り、ルールでは処断できなくてもそれを補うべく善意を見せている。人間は悪意に染まっても悪にはなりきれない。なりきってしまう人がいるように思えるが、よく凶悪事件の記録を見ると、悪意に染まりきれない部分がわずかにある。悪意ではなく、それが正義だと思ってやる人のほうがもっと鋭く無駄なく殺人なりなんなりをする。それが人の本性というものなのだ。
 現実社会には安全装置としてさまざまな組織があり、それぞれにプロがいて、ずいぶんな連中を追いつめている。それでも神様ではないから追いつめきれずにニュースになるが、それだってニュースの後に追いつめている。それが分からないのはワイドショーの見過ぎだろう。
 まあ、そういう人間とか、命とかの考察がどっかいっちゃっている人が先輩をやっているSFという世界は『ずいぶんだな』と思ったけれど、思い起こせばSF映画やSF体験はそのずっと前からあるし、イベントに参加すればまともな人がほとんどである。
 ちゃんと人の心を持っている。
 どうやらSFの世界では、読者はまともで、逆にSFの評論だので斜に構えた人たちが一時期もてはやされ、それに呆れてSF離れが起きたのだと思う。特に某有名作家なんかは、SF本道とも言うべき知識と娯楽のバランスを探る中で、声ばかり大きい斜に構えた人々の愚論に影響されすぎてSFに決別したのではないかと思っている。
 だからこそ、私はSFの再興はSFの送り手からではなく、受け手の心に響くことを第一にすることから始まると思う。設定とか、SF技術とか、そういうものは道具ではあるが、それは誇るものであったり、作品の価値を定めるものではない。
 SF小説に置いて、SF的設定や技術は舞台を構成する大道具であり、それ自身で特許を撮ったり主張するものではない(事実著作権特許権のからみで言えば、著作のアイディアは特許ではない)。
 そして、受け手の心に響く、というところは、SF小説ではSFの定義とか、SFの設定に隠れているが、SFはまず何よりも物語なのである。人の心に響き、人に喜びや楽しみを提供してこその物語なのである。
 私の友人のとあるSF読みが、要するに***という小説って、設定はこうだけど売りはモエ要素だけだよね、とばっさり解体して、たしかにそうだなと思って納得した。
 その某有名作家のSFとの決別は、私はそれで良いと思っている。SFの本当の読み手ではなく、SFという小さな業界の斜に構えた批評家の手に汚れるよりも、本来の書きたいものを訴えた方がずっといい。
 第一、今狭義のSFで評価されてもかつてのSFが評価されていた時代の10分の1以下の数だし、SFの読者は狭義のSFマニアの外側にものすごく広がっている。その市場の広がりぶりは、過剰に近いほどで、SFという事にすればいいや的な劣化コピーでもなんとかなってしまうほどの市場規模を持っているようだ。まあ、バブル的状況だからはじけると思うけど。受け手のことを考えていなさすぎる。


 そういいながら私は思っている。
 モエの時代は終わる。ぶっちゃけ、あと3年持たないと思う。別の言葉で、別の方向から価値が言われるようになると思う。
 というか、一部はすでにモエから離れはじめていると思う。
 なぜなら、そのモエには、作る側にも見る側にもできあがったものにも、生きた血はもう通っていないのである。