パチクロに泣き、鴨ちゃんとSAT隊員に追悼。

 体の調子がまともだったので厚木に出撃。

 厚木有隣堂アニメイト。ユキさんの画材を買い、『もってけセーラー服(らき☆すたのオープニング)』のCD、そしてらき☆すたも買う。
 帰り道にCDを聴いてみる。いやー、キレてるけど、なにげに伴奏のインスツルメンタルがいい仕事しているんだよね。何かというとオケヒを鳴らせばいいや的な曲作りがあった気がするけど、丁寧な曲作りで思わぬ収穫。
できるかなクアトロ (SPA COMICS)

できるかなクアトロ (SPA COMICS)

 あと、『できるかなクアトロ』購入。なんといっても『パチクロ』がいい。泣いちゃったよ。
 ギャグマンガというか、小6とガチでバトルみたいな話に言われているけど、柳美里とか伊のつくひととかはどうだっていいんだ、サイバラの本人の話が泣ける。鴨ちゃんも存命だったし。


 鴨ちゃんは幸せだったと思う。鴨ちゃんは苦しい病というか、アルコール依存もあったし、それにいたる報道カメラマンとして見た地獄の風景に苦しかったと思う。
 悲しいけれど、生き死にって、それぞれ意味がある。どんな惜しい死も、どんなに言葉を尽くしても戻ってはこない。そこで、それは生き死にを司る何かが、その惜しい死、非業の死、無情を見せることで、我々に何かを考えさせようと思っているのだと思う。
 死んでしまえ、と思いたくなるような屑はいくらでもいる。でも、その屑が死んだところで、我々はそこから何かを学んだり、何か生きることを意義たらしめようと言うきっかけに出来るだろうか。もともと生きている者に出来ることはわずかでありながら、一人一人が少しでも心を動かすことで大きなことが出来ることもある。それが人の世というものの玄妙さだ。
 その点でSAT隊員の彼の死はまさに悲しい。それで救われた馬鹿チンピラの命と全く釣り合わない。でも、SAT隊員の彼の出来ることより、我々市民が皆彼の死に学び、死を嘆き、命のはかなさ、それでも命を使う『使命』をもつ彼らを理解するきっかけのほうが残念ながら大きいのだ。
 そして、死はその生き死にを司る何かが、もういいよ、と許してあげたことでもあるのだろう。
 鴨ちゃんは生きていればもっといろいろなものがかけたのかも知れない。でも、この世の中はあまりにも苛烈すぎる。私自身統合失調のせいか感じるけど、生きていくには難しすぎるし、残酷すぎる。鈍感に、ある意味無神経に生きなければ耐えられない。
 そこで苦しんでいる人もいる。もちろん生きている人は生きている人で、みなその難しさと生きている。ただ、それを本当に生きていると言うことの奇跡と同時に存在する罪を、心の痛みではなく、身体の疲れや肩こり腰痛、そしてだるさと感じているかの違いだけで、生きていることは決して幸せばかりではない。
 ただ、死もまた幸せではない。その両義性の中で、鴨ちゃんは心残りもあったと思うけど、でもサイバラ先生と結ばれ、離婚はしたけれど幸せだったと思う。SAT隊員も、将来を嘱望されていたとはいえ、後に現場を離れていくなかで警察の中の官僚化したりズルかったところを見たかもしれない。
 その全てをここで私が書き尽くす能力はない。だが、死に意味はある。特に我々生きる者にとって、死に意味がないなどというのは最低の下劣さ、冒涜である。
 私はまだ死ねない。やることもまだあるし、やらねばならないことも、そして抱えて持っていかねばならない荷物もある。でも、ユキさんと出会えたし、実父母もユキさんのお父さんにも、さまざまな人々に会えて、良かったと思っている。
 生き死にはデリケートである。でも、死は残念だという言い方もあり得るけど、その反面、一生懸命みんな生きているのに結局いがみ合い殺し合い憎み合わなくてはならないこの世の地獄から卒業できたという言い方も、あまり大きい声では言えないが、出来ると思う。
 死の向こうにも、死の手前にも世界がある。そのことを忘れたとき、死にも生にも意味がなくなるのだ。それこそ全くの不遜である。
 その機微を分かっていて、その上でああいうギャグを描いたり、『パチクロ』みたいなのを書けるサイバラ先生はまさに私にとって中島みゆきとともに神である。