電脳コイルふたたび

 いや、本当にいい。あの分厚いガラスをネタにしたシーンとか、いちいち演出の基本をやって、それがちゃんと1話ずつきっちりしているのがすばらしい。
 それに途中のアマサワがいう電脳世界の話、へたくそな小説描きならフェイクじゃなくてそっちの方で話を作っちゃうよ。劇中であっさり作り話というけど、しかしあのなかに一つだけ、本筋と関わる部分が残っているようだ。実に心憎い演出である。こういうアニメがあると、ついNHKも捨てたもんじゃないなあと思わされてしまう。


 最近思うんだけど、『不完全さ』というものを逆に考えている。つまり、人間や、社会や、文化や、文明が不完全で補完されるべきなのは、補完されなくちゃいけない未完成なんじゃなくて、逆に補完される余地を作るようにしている遺伝子アルゴリズムで獲得した性質なんじゃないかと思う。
 遺伝子を見ていると、人間にしろニワトリにしろ、卵子が受精したそのときの1つの細胞からどんどん卵割し、最終的にオトナの個体になる。
 でもその進化の中で、卵子をああいう個体のカタチにまでかっちりと整形していく仕組みがあるのなら、死なない個体とかを作るほうが楽なんじゃないかと思う。骨にしたって骨芽細胞と破骨細胞をバランスさせて個体としてのカタチを残したまま骨を入れ替えてしまう仕組みを持っている。人間なんか、未だに建物の骨格は鉄骨で作るけど、その鉄骨をそのまま入れ替えてしまう技術はない。足場を組んで、別の支えを作って建物の使用を停止して、なんとか入れ替える。ところが人間も動物も、24時間営業しながらどんどん入れ替わるのである。
 逆さの考えだけど、でも思うのである。完璧なシステムを作っちゃったほうが、不完全でどうにでもなりうる自由度や未知の可能性に対して対処する余地を残したシステムを作るより楽なんじゃないかと。最低でも作る側としてはラクだなと。カンペキなんだから、あとは応用すればいいだけ、と言ってのけてしまえる。
 そうはいかない。システムの外側には必ず外側がある。無限大のシステムは存在しない。外側に常に無限大より大きな無限大ができてしまう。
 だったら、どこか不完全なところを残しておいて、さまざまな応力がそこに集中してこらえるようなシステムを作ることがさらに高度なのではないか。たとえば日光の逆柱なんかそういう発想だろうし。
 それどころか、作っている途中でもうもう一個作っている式年遷宮なんてのもある。
 そういう世界観を考えると、電脳コイルのバグやイリーガルというものの深みは、私の目的とするところに近い気がしている。


 ちなみにこの前、アメノミナカ世界と私が呼んでいるプリンセス・プラスティック世界の外側、タイムトラベルを可能にする時間システムの話で、意識と身体のハードプロブレムと呼ばれている問題を考察した。
 意識の無限後退をとどめて、すべてはドットでありピクセルであり、そのピクセルが26次元の超弦の弦であり、26次元は26次元という高次元宇宙ではなく26個のNexzipというアドレスの数値であり、その超弦ピクセルが存在するグリッドの中で、自己組織化の働くように超弦とされるピクセルの中を流れるデータが生命を作っていくという考えである。
 たとえばビットマップの画像データをパソコンに記憶させる。しかも揮発性メモリの上に。
 すると、メモリを分解しても画像データはさっぱり見えない。
 しかし、画像データはそのメモリを管理するロジック回路があれば着実に再生できる。
 生命とは、その画像データのようなものなのだ。
 そして、そのイメージに意味があるかどうかは、結局はその判断をする主体が必要になる。
 その主体とはイメージであり、イメージがイメージを判断しているのだから、この世界に自分という主体をおかない限り、一つも確実なものは発生しない。
 そして、その主体とは我々認識主体であり、残念ながら我々がそのイメージとしての認識主体と思う自我の外側はすべて他者であり、またそれもイメージであり、それが生命的に中心になることはあり得ないのだ。
 極端に言えば、世の中では多くの人が苦しんでいる。何のために生まれたのか分からないようなかわいそうな赤子もいる。
 しかし、かれらの存在はすべてイメージであり、我々が目を閉ざしたり、ちょっと別のことに忙しければ認識できず、存在しないのと同じなのだ。その逆に、その赤子が自分の子で、ちょっとでも抱けば、それは世界になってしまう。
 それは生命というイメージのもつエネルギー、効力が対数的に表現できるような現象であることによる。
 その場は地震マグニチュードのように大きく揺り動かされる。しかし、その動かされる力は、どんどん減衰していく。そして最後にはなにもなくなってしまう。
 その現象を起こし続けるのが生命であり、そしてそれもまたNexzipで表すことができて、一つの単位として共有できてしまえて、時間に意味がなくなったタイムマシン理論確立後の世界から自由にアクセスされてしまう。


 ここまで書いたけど、いろいろほかにやることがあるのでここまでにしておく。しかし、ピクセルに超弦からNexzipと次々と座標が出てくるけど、これはそれぞれのなかで織り込まれ、繰り込まれるもので、多重的な世界を表す。
 そこで私としては、多元世界と言うよりも、多重世界の方に移りつつあるのかもしれない。


 探求は続く。