羽海野チカさんの新作『3月のライオン』第1回
ううむ。将棋ネタは花本先生vs真山だけではなかったのだな。
文学的領域に入っていきそうな一話であったが、手を間違えたらすべて崩壊してしまう設定である。だからこそ作者は挑戦した方のだろう。
『ハチクロ』については、ベッドサイドにおいてほとんど暗記して読了としたのだが、若干の緩さがあった。その緩さこそ描きたかったものだろうから、作者のネライは成功している。
決断することのむずかしさ。
思いは残る、はずだ。
そうでなければ人を思ったり、考えたり、生きていることが丸ごと意味を失う。
意味を失って生きていけるほど人は強くない。
生きていけると強弁しても、こっちはKey Of Goldという心の哲学を20年かけて考えてきた。
すべての命に意味はある。少なくとも自分には意味がある。そうでなければ自分は自分の外に漏れだし、危険な衝突と自己嫌悪と萎縮とぬかよろこびを繰り返す不安定なものになり、安定を失えば人間なんて弱いものである。
弱い一人一人が、何かをよくしようとしてつないでこない限り、生命の歴史はここまでこない。我々命は、宇宙開闢以来、膨大な組み合わせの中からただ一つの経路を経て今につながり、未来に次ごうとしている。すべての命は万世一系なのだ。
命に元々価値なんてないという人もいる。人は死ねばゴミになるなんて言葉も一人歩きしている。まあ言いたいから言うんだろうけど、価値なんてないと発言するところですでに無自覚に自分を肯定している。そういう無自覚な肯定を続けている限り、命や自己とか認識理論的なハードプロブレムを思索する資格はない。
私はそういう厳しい条件で思考実験をしている。自分を失うこともある。統合失調を抱えてこの問いはかえって病気に悪そうだけど、でも統合失調を自覚した状態で認識論を考えていくと、自分という特異点を否定することも肯定することもない境地が見える。
もともと自分を特異点としてその外側に世界を構築するから、他者の無責任な言いぐさに影響されてしまうのだ。
自分が世界の中の特異点なのではない。
自分そのものがすでに世界なのだ。
内部は外部に相似し、外部は内部に相似する。
外部はすでに内部にあるのだ。
そして、内部はすでに外部にある。結局その循環の中で、自分と彼女・彼氏という世界ですでに異物受容を強いられるが、しかしそのことで初めて命は意味があるとかないとかを越えて、決断できる。意味があるかないか考えても循環参照をするだけなのだから、一つ自分とは別の存在を置き、そしてそれにのめり込み、真剣に命をかけて心を動かすとき、人はようやく人になれる。
どっちにしろ、自分の命を失ってでも守りたいものを持たない者には、自分の価値などわかり得ないのだ。一生特異点のまま、デカルト劇場の中で一人寂しく誰かにかまってほしいと願うしかないのだ。
他者はいる。でも、それは世間ではないし、他者として認められるのはたった一人である。しかし、その一人からすべてが構築される。
つまり、自分という特異点から世界を構築するから不安定になるのだ。
愛しのかな 1 (バンブー・コミックス DOKI SELECT)
- 作者: 田中ユタカ
- 出版社/メーカー: 竹書房
- 発売日: 2006/07/27
- メディア: コミック
- クリック: 32回
- この商品を含むブログ (18件) を見る
他者、私の場合はユキさんだけど、それを見ながら世界を構築していくと、たとえば『愛しのかな』田中ユタカに『他者がいない』なんてコメントを下すようなバカをバカだなと思えるようになる。
そういう三人称の他者が、何か責任を持ってくれるだろうか。結局ノラネコにえづけをする程度の気持ちでその一時優しくしてくれるけど、その先は何もない。
逆に、自分が誰かにとって三人称の他者であると思うとき、やはり責任は負えないなと思う。
命と命の関係とはそれほど厳しい。
でも、この人なら責任を負おうと思える人が一人だけ存在できる。それこそが本当の関係である。
無責任な三人称の他者を気にしたところで仕方がないのだ。
誰かを、命をかけて、真剣に愛して、初めて人は人になる。それ以前の人間は結局はまだ半人前のオコサマなのだ。
そして、その一人前の人間になることは、無自覚に肯定し依存する『仲良しともだち』という関係がむなしく思えるようになることでもある。
そういう仲良しも大事だ。だが、所詮仲良しなのだ。
本当に人間が人間として苦しむに値するのは、その2人称の他者だけだ。
そして、その2人称の他者を愛することで、もう一度世界を構築できる。
他者はいる。だが、『愛しのかな』では、その2人称の他者と、3人称の他者をはっきりと区別している。
その図式は、私小説として描かれてきた日本文学の問題に接近すると思う。
オマエラキター、なんてものは何の責任も、覚悟もない。ただカマッテほしいだけの愛情乞食だ。
私もかつてはそうだった。だから思うのだ。
誰かを真剣に愛せない者に、本当の命も世界もない。『それっぽい蜃気楼』を見ているだけなのだ。
蜃気楼はいくつ見ても、所詮蜃気楼なのだ。
- 出版社/メーカー: アスミック・エース
- 発売日: 2005/08/26
- メディア: DVD
- クリック: 5回
- この商品を含むブログ (51件) を見る
そして、羽海野チカはハチクロで逆走ラブコメとコピーに描かれるような、三人称の他者を自分に内在させながら、二人称の他者と対立させて動きがとれなくなった心の像を群像にした。
ハチクロでは、皆が自分の中の三人称の他者におびえて、目の前の二人称にできる他者を時に見失いながら、その目の前の二人称他者のおびえにともすれば付け入ってしまいそうになる自己嫌悪と、付け入りたい気持ちが対立しながら物語が進行する。
でも、その循環参照は、『傷』とそれによって『決意』し、二人称の他者にすべてを与えようとすることで、それぞれ循環参照だった関係が一斉に整列した。
ハチクロの心理とはそこにあると思う。
そして、羽海野チカの新作の第一話は、重く入った。どうなるかはまだ見なくてはいけないが、非常に文学的な命題を突きそうでこれからが楽しみである。
勝負の世界と、併存する世界。
物語は置かれた。その上でどういう心が動いていくか、それは次号で見えてくると思う。
非常にチャレンジングに感じた。楽しみだ。作者がハチクロというマンガで成功しているからこその楽しみなのだが。
決して冗長でもないし、詰め込みでもない。静謐さすら感じさせる第1話だった。
これからがたのしみである。