SFの経済とプリンセス・プラスティック

 よく考えてみれば、未来もので国家を企業連合体が支配したりするのは一部の経済学者と経済学の真髄に達し得ないものの誇大妄想ではないか。
 現実に日本ではかつて言われていた銀行グループによる支配も壊れているし、株の持ちあいはしても、それ以上の国家を超える連携にはならない。そうなるのならホンダサウンドが芝刈り機からジェット機まで聞こえるのだから、ソニーなりホンダなりがもっと主役に出るべきだろう。だがソニーPS3で失敗しクオリアシリーズの超高級家電はバブルとなったし、PS3とHDDレコーダーを組み合わせた家電すらいまだに実現していない。
 ホンダも手広くはなったが、しかし車の会社のままである。
 確かに国家の軍隊とはべつに警備会社が大きくなるというのもイラクではその一部はある。米軍が旧来の戦争の概念では圧倒してしまったところ、逆に言えば今のテロの戦術では一番狙い目の、今も警備警戒が必要だけど明確な敵の見つからない後方や輸送路では米軍にかわって警備会社が傭兵をあつめて警備を請け負ったりしている。
 しかし、それでもその警備会社はステルス戦闘機F-22イージス艦を運用するような昔のSFファンの夢見るような槍の穂先のような活躍はしていない。
 「世界が100人の村だったら」という見方もあるが、圧倒的な貧困の世界に目を向けても現実には経済以外の仕組みで彼らを引き上げることはできないし、その貧困だって場合によってはそれが文化であるという人々もいるのが現状である。無言語文化は経済の作用でどうしてもその無言語を文盲と言いかえることになってしまう。われわれは引き返すことのできない道を来ているのであり、100人の村と言っても、結局は「人類」というカテゴリーは一時的な啓蒙主義の傲慢であるように思う。人類というが、文明のなかで競争すると格差はどうしても生じるし、できるのはその格差をみとめつつ、最低限度を上げるために富の再分配をするしかなく、それが貧困対策といいながらいくつもの異文化を破壊することも覚悟せねばならないのだ。
 軍事の世界では圧倒的に高価な装備を装備し、さらに高度な装備を開発できるのは税金を使える国家だけであり、その国家の計画を潰せるのは米軍よりもはるかに人数で多い弁護士資格を持った政治家とそれに加われるアナリストであり、そしてその合間を縫ってテロ組織が活動している。その概観のなかで、企業がもし国家の行っている富の再分配と政策的集中を代われるのであれば、企業は国家を超えられるだろう。でも現実には企業の拡大は企業間では競争にさらされ、同じ企業でもさらなる権力であるメディアにも脅かされ、そのなかで国家という枠組は便利に使われているのが現状であり、私はこの構造は続くと思う。
 国家という枠組は企業の防衛にも使えるし、富の再分配の機能は企業に軍事を含めた技術開発という公共事業を生み出す。すでにその循環で企業は責任をうまく逃れ、欲望を満たしているのだ。それをわざわざ責任を負ってまで利益が得られるとは思えない。
 線形予測というものがある。このままが続けば、という予測で、たとえば昔の馬車時代のイギリスではそれで100年後のイギリスは馬車馬のフンで埋まるだろうという予測があった。現実にはそうはならない。それは線形予測は予測のひとつであって、社会は量的拡大だけではなく質の変化も起こすところにあると思う。
 その質の変化はあっても、ローマ時代以前から国家はあったし、商業もあったが、それは国家を傾かせてもそれを代替はできなかったし、それが二千年以上続いている。それを思うと、質的な変化はあっても、国家より大きな企業はあっても、国家の変わりになる企業はないと思う。そういう企業支配社会はSFで昔はやった共産主義的な世界観の影響だと思う。
 そこで私はプリンセス・プラスティックを書く上で、慎もうと思って未来予測ではないといったが、私はあえて今言おうと思う。プリンセス・プラスティックは未来予測SFのつもりで書いていると。
 苦しいのだが、しかし誰かがやらねばならないし、また未来予測になりきれなくても現状から予測しえる未来を追求することは、結果的に現在を批評することになると思うからである。
 大げさになったが、しかし私は人生の仕事でやると思っている以上、覚悟しようと思う。
 私なりの未来予測、それがプリンセス・プラスティックであると言いきる。あえて。