押井守特集の後、ヴィトゲンシュタインとの再会

 本日(8/20)午前5時頃、シードがはじけるというか、私がここまで書いてきたすべての混乱に近い苦闘のすべてを統一する解釈が『降りた』。
 これまで意識のハードプロブレムを検討する人々がなぜ睡眠と覚醒の境界状態に興味を持たないか疑問に思っていたのだが、そこからいろいろ検討したところ、うちの小説に出したジェネレーター(夢の世界を書き換えるコンピュータ)やエスコート・エンジェルに出てくる風致天銘と天皇家の問題(未来を記した予言書)、そしてなぜKey Of Goldは近江だけが作れるかといった謎(Key Of Goldと、その互換品であるSILVERというプログラムだけがロボットの基本的なパラドックスを越えて動作できる人工生命を作れる)といった謎が解けるように思えた。
 今、私の描いている作品は、まさに私の生命論の結晶となる作品で、作中で命を落としたとある人をよみがえらせる話なのだ。
 そして、これまで描いてきた私の『アメノミナカ世界』が、一般的な言い方をするなら独我論とその裏面の世界装置ともいうべき考えで、それはヴィトゲンシュタインが晩期に検討していた『確実性の問題』と量子論大統一理論とつながり、そこから再び生命尺度・氾生命論の考えとアメノミナカネットワーク(世界装置)から遺伝子的アルゴリズムとともに構築されていくフラクタル的な構造をもつ多世界解釈の究極であるアメノミナカという世界装置、そしてその結論としての時空のフォーマットにつながる。
 単位は点であり、点には部分はないけれど無限の点が含まれる。その上に超弦があり、それが世界装置論、アメノミナカネットワークのNexzip座標として表せる。
 無限次元論までは必要ないと思う。次元は確かに作れるし、拡張は可能だ。しかし、物理に置いて複雑さを追加しても、単純に表せてしまえる理論があれば、もっとフクザツに出来るよと言うのは傍論になる。しかし26次元、26のパラメーターが26であるところを確定するまでには至らないのが残念ながら私の現状である。おそらく26次元で足りるところを拡張したところはさらに世界装置の外側になり、それは時空管理機構の管理する領域だと思う。
 結局、『グラディウス』のビックバイパーの弾はどこから補給されるんだろうというシューティングゲームのストーリー・設定づくりから始まり、『AKIRA』と『ラピュタ』から始まって、そこから『ドラえモン』に戻っては翻案SFに手を出し、最近ではなんかいろいろと『攻殻』映画とか『マトリックス』とかに影響されつつ、エヴァレット解釈にたどり着いたら、よく考えたら私の考えって、全部ヴィトゲンシュタインそのものじゃないですか。それもどまんなか。
 まあ、偶然意識と睡眠というところと、チャーマーズ『意識する心』のクオリア論の迂遠さを考えていたところ、死について、テセウスの船について、独我論についてと調べたら、なんと一周してしまった。
 まあ、睡眠不足気味なんでぼやけているだろうけど、でも大筋ではこれで良いと思う。
 クオリアについて考えたし、茂木健一郎さんの本も読んだけど、でもクオリアの概念はよくても、それはそこから先に生命そのものがあるとは思えない。
 私は逆に、クオリアそのものが生命だと思っている。
 クオリアを感じているのではない。クオリアは我々そのものなのだと思う。
 我々は、クオリアの集合体であり、クオリアは粒子のモツパラメーター那緒だ。
 感じるから我々は存在している。それをいまの在来のクオリア論は、感じる対象としてのクオリアと、感じる主体としてのデカルト劇場に閉じこめられた我々という無限後退する存在に分割してしまう。
 我々はクオリアを感じているのではない。我々の意識はクオリアでできていて、他のクオリアと共鳴することでクオリアを感じると思っているのである。
 そして、クオリアは世界装置とも言うべき場に生じる超弦のパラメーターであり、それが共鳴することで生じる。結局超弦がクオリアという状態を発生させ、またクオリアが超弦に波及してさらにクオリアを結びつけるのだ。
 
 ま、これは小説を書くための大道具だから、たたかれても私自身高卒のあと内海信彦先生にいろいろ教わって、あとは独学だからしょうがないけれど、でも残念ながらこういう話をちゃんと相手を尊重しながら話せる相手はユキさんだけである。
 それでいいんだけれど。だいたい基本的に全否定から入るオタクと話すのは必要以上に疲れるし、それにこんな話を創造的に作れるパートナーがいる世界なんて、私にはあり得ない。夢のまた夢。でも、その夢を叶えてくれたのがユキさんだった。
 プリンセス・プラスティックは、きっとたぶん1万枚の原稿を書きながら、家族にそれを死後発見されたヘンリー・ダーガーの絵と同じ運命をたどるのだと思う。それにしちゃユキさんが可哀想かもしれないが、まあユキさんには看病と準夜勤の仕事の収入と、あとすこし風変わりな夫婦でいることで満足してもらおうと思う。ユキさんはその点で、ありがたい存在である。私の作品を読んでくれて、その感想も言ってくれる。
 ヴィトゲンシュタインは生涯独身だったらしい。アラン・チューリングも。
 ちなみに『戦闘美少女の精神分析』は初版を買って、いろいろ考えたけど、まあシファもそうだし、ましてやミスフィなんてもっとそれなので(それが香椎との関係である)、まあ類型としてはそうだなと思いつつも、単なる一例から脱する、つまり観客の予想できる劇を壊すには劇を過剰に演じていくことだと思うのでそのままプリンセス・プラスティックを続けてきた。
 でも世の中はまた死神だの吸血鬼だので忙しそうだし、幸いそこで電脳コイルというすこし胸のつかえが降りるようなものもあるけど、それだけだ。
 内心、映画『アップルシード』は劇場で見て、近所の東京工芸大での講演も聴いたけど、やっぱりあれは技術があっても物語を作るフレームがだめだと思う。だって2ちゃんの発想だもの。いくらディテーリングしても、2ちゃんの釣りみたいな発想ではちゃんとした作品は出来ないと思う。見る前からかなりがっかり。
 ベクシル −2077日本鎖国− Vexille 公式サイト
http://www.vexille.jp/
 しかし、このベクシルのこの期待出来なさは何なんだろう。見る前からガッカリ。期待度ゼロ。何でこんな企画通ったんだろう。

 悲しいけれど、私の力はここまで。締め切りに追われながら書いていたらこんな境地にはたどり着けなかっただろう。
 私には残念ながら、これしか器がなかったのだ。無理をしたら、まだ書き切れていないプリンセス・プラスティックのディテールを書く機会を逸するし、またあの『さよならを告げた人々』とつきあうなんてまっぴらである。
 あと、形状としてこれまで『AKIRA』などでも『らせん』がモチーフになってきたけど、あれはあのころのDNAとか遺伝子的アルゴリズムの流行があるのだと思う。
 でも、遺伝子的アルゴリズムは今の私的には樹形図だし、DNAも、細胞核の中での振る舞いを思うとらせんと言うよりは弦に思える。
 その結果でアメノミナカをShadeで樹として描いた。あの下の水は無限大の無で、葉はそれぞれ分岐世界を表す。周りを回っている光の輪はその構造全体を破滅させないように働く装置と考えている。