『戦闘美少女の精神分析』の稀代の蛇足
- 作者: 斎藤環
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2006/05/01
- メディア: 文庫
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思い出したけど、『戦闘美少女の精神分析』で斉藤環はたぶん戦闘美少女好きを治療するつもりなんてさらさら無かったのだと思っている。精神分析は治療の手段ではない。精神分析は精神病の治療手段としてほぼ無力である。犯人を捜したところで心の傷は治らないのだ。それは精神科医なら常識だろう。
だが、戦闘美少女だろうが、女神だろうが、特等突破戦闘艦だろうが、男の心理として、そういうものはちゃんと峻別しているものだ。
アイドルが好きだけれど、アイドルと結婚して家庭を築くファンタジーはあっても現実味がないのは十分承知している。私もちょっと昔のGoodrichのレースクイーンってエロいなあとは思うけど、そのレースクイーンを調べ上げて関係を迫るなんて事はない。あくまでもユキさんだけが私の妻である。そして、その妻というものが、女性であり、生活のパートナーであり、創作のパートナーであることを識別しているし、性の対象として見ることもあるけれど、でもそれはユキさんが応じてくれるときだけである。
それはランの花が美しくても、それを抱きしめて一生ともに暮らそうと思わないのと同じだ。
美的なものを求める心と、愛情を求める心は男の中では透明なパーティションで仕切られている。
第一、昔から男は同じ女性でも映画女優のほほえみと、妻のほほえみと、お水の女性のほほえみと、親戚の子供のほほえみが同じほほえみであっても違うものと了解しているのが普通だし、それは今、ベルダンディーのほほえみであっても、牛川とこのほほえみであっても、中川翔子のほほえみであっても、シファのほほえみであっても、それぞれ別なのと同じである。
要するに、そういうものの区別が付かないだろうと男に迫るのは、花を愛でる園芸家が一つ一つの花をそれぞれ識別し、愛し、それぞれに世話をしているのに、その園芸家を花好きの一言ですませ、花なら何でも良いのだろうと侮蔑するのと同じ失礼であり、知的怠惰であるといえる。セクシャリティという言葉を使う人々がいるが、どうにもその概念がなんだか貧困なのである。そんな一言でいえるものではない。もっと多様で、芳醇なものなのだ。
だから斉藤環も『おたくに「現実に帰れ」などとは言わない』と結論しているのである。
しかし、そこで『現代に適応するために選択した身振りである』なんて言葉が続くのがまさに、これが本当に文字通り蛇足であるのだ。
現代だからではない。すくなくとも日本語で愛情が語られる時代にはすでに花の区別を知る園芸家としての男性はすでに誕生していた。おそらくフェミニズムの研究をしている人ならば、そのさらに前、言語化される愛情の前にそういった愛情の峻別をするのが男性であることはわかっていると思う。遺伝子的アルゴリズムとしても、異性の好みを異性なら誰でもというより、異性を愛の対象として見るときにすでに峻別できていると思う。
頭のいい人たちって、無自覚に手抜きをするし、無自覚に混同する。それは難しい用語を使う中で自分を見失っているのではないか。まさにヴィトゲンシュタインの哲学に与えたイチゲキの通りである。
彼らは本来用いられるべきコンテクストを離れて言語を用いたために言語の混乱に陥りやすかっただけなのだ。
(Wikipedia「ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン」より)