地震台風クマ、世に災難の種は尽きず

 新潟は地震と台風で大変でしょう。
 避難なさっている方、被害を受けた方はブログどころではないでしょうが、平穏な日々が早く戻りますように。
 私は他に何もできないのですが、平穏でない日々のつらさは少しだけ分かってます。

 しかし新幹線は運が強いなあ。
 阪神淡路震災の高架橋総崩れのときは偶然始発列車前に起きたので被害者がなかった。
 今回も脱線と聞いて、ドイツICEの悪夢を思ったけど、新幹線は2両脱線だけの模様。
 一部では空自偵察機RF-4は夜間は飛ばないことになっているというけど、防衛庁P-3Cとヘリを派遣したらしい。
 P-3Cなどは熱源センサーを持っているので、夜間でも火災などを識別出来るでしょう。
 でも、RF-4はもっとすごい偵察用合成開口レーダーを持っている。
 パイロットは大変だと思うけれど、でもこういうときこそ、頼れる自衛隊であって欲しい。

 RF-4の部隊をググっていたら航空機イラストの小池繁夫さんの作品をまとめたページを発見し、あまりにも美しくて絶句する。

 美しい雲や海を見ていて、思った。

 今年は天変地異がすさまじい。被害を聞くだけで、言葉に詰まってしまう。

 でも、我々は各々の仕事をするしかないのです。

 私の持論として、この地上には楽園はなく、人間は全て苦しむためにこの世に生まれてくるのだという考えがある。
 確かにこの地上にも楽しいこともあるし、幸せもある。
 しかし、それは全て有限であり、あれば失う恐れを生じるのである。
 幸せに思えるのは、単に目の前の小さな幸せに酔っているか、僥倖に浴しているだけで、基本的に人は皆、苦しむために、苦境と闘うために生まれてきている。
 だから、同じ苦しみに立ち向かえる喜びや悲しみを共有出来る。

 そして、この世に実在などない。
 全ては個別の問題であり、他人の苦しみはどうやっても理解出来ない。
 他人は他人だ。
 こうして他人が苦しんでいても、マスメディアを通じてしか関わることができないのがこの情報社会の傍観者でしかない個人なのだ。

 個人にとって、他者の苦しみは理解しようとしても、かわりに味わってあげることはできない。
 悲しいことだが、現実世界とはそういうものだ。

 目の前で苦しんでいる人は全て、それを見るものに何かを感じさせるためのみに存在している。
 そして、苦しんでいる人は、分岐していく世界の中で、たまたま私たちと存在の可能性がたまたま重なっているだけで、その当人はもっと別の分岐の世界、並行する別の世界に生きているのかも知れない。
 だからこそ、ユーミンは『目に見えるものは全てメッセージ』と歌い、記号論でもそういう解釈をする。

 存在しない個人と、存在しない被害者。
 繋げているのはその時々のわずかな『縁』であり、関係であり、世の中全ては関係なのである。
 そして、健康な人間はその関係の距離を適正に持つことができる脳のバランスを持っている。

 ところが、統合失調症の場合、その関係の距離が内側に引きこもってしまうところはあると思う。
 自分の内側に自分というものの『感覚の外皮』があるのだ。
 それがATフィールドなのかも知れないけど、私はそう思う。
 そして、その外皮の外側に出てしまった自分は、内側の自分を激しく苛む。
 それが統合失調症の関係妄想であったり、幻聴であると思う。

 私は常に自分を苛んでいる。
 常に私は監視されている。
 いつも私は私に非難されている。

 それでも、生きている。
 苦しむために生きる、というのはつらい。
 でも、苦しいけれど、それはいつか終わる。
 生まれたときに持った課題を、果たし終えて終わる。

 この犠牲者たちの課題は、犠牲者当人の姿を私に見せるためだったのだ、と私の有限に過ぎない認識は認知するしかない。
 足を折っただけでも大変だったのに、家を失い、親族を失うことの苦しみは、類推することしかできない上に、類推しても届かないと思う。
 でも、この世界の仕組みは、その生まれるときに与えられた苦境に立ち向かうことを求めている。
 そして、その苦境がある限り、人は死なない。

 私も軽挙妄動に走らず、できることからやっていこう。
 それしかできない。

 今はまだ私には何の力もない。
 関わろうとすればできるのかも知れない。
 しかし、それ以前に私には守らなくてはならないこともある。
 優先順位をどうしてもつけなくてはならない。

 悲しい考えだが、逆に考えるなら、何も存在しないという事は、何が存在していても同じでもあるというのが私の理屈である。
 苦しんでいる人にとって、その苦しみはたまたまそういう巡り合わせにあっただけなのである。

 なぜここまで苦しまなくてはならないのか、と何かを恨みたくなるときもあると思う。
 だが、苦しむために生まれてきて、その苦しみを乗り超えたとき、現世で幸せになるか、来世で幸せになるかは人によるけれど、いつか幸せに戻ることができるのだ。
 しかし、何かを恨んだとき、幸せはなくなる。
 幸せの種は、既に心の中にある。
 苦しいけれど、その苦しみを乗り超えることは、たましいの世界としての一番大きな仕組みによって期待され、その向こうにのみ、無限の幸せは存在する。

 言葉だけで慰めても、経済的・肉体的な損失は決して戻ってこない。
 だけど、全ての人が、いつか幸せを自分の中から見いだすことができると思う。

 説教みたいでいやなので、ここらへんで。
 でも、いっちょ、この地上に幸せはないと思っていると、望外のいいことが舞い込んでくるものです。