乃木は愚かだったのか?

 乃木将軍の評価だけど、やっぱり司馬史観の影響だろうなあ。

 司馬遼太郎がどんな人だったかというと、故人を鞭打つようで申し訳ないし、ちょっと前までマツリだったけどその前はシバリョウと通俗作家扱いされていたし、それに『梟の城』なんか、私も司馬版原作を読んだけど、娯楽としての歴史であって学ぶ歴史との違いに留意しないと危険だと思う段階である。

 現に軍事知識としての歴史講談ものの再解釈、講談として盛り上げるための演出である、という結論のある歴史事象はいっぱいある。
 そして、乃木将軍だけど、当時のあのポストのプレッシャーを考えると、司馬史観はあのポストに神がいなかったから旅順攻略が進まなかった、という無理な批判に思える。

 分隊単位だって白兵突撃させるとしたら分隊長は苦楽を共にした分隊士との信頼、統率がないととてもやっていられない。
 この人に不安がある、と思った瞬間、不安は指揮官から兵員に伝染病のように広がり、蔓延して規律はなくなってしまう。
 艦船というブリキ缶の中に押し込められている海軍では、戦況は見張り経由で刻々と艦内放送に流れるのだから規律はある程度守られる。
 航空機ではなおさら、結果は明白である。
 でも、陸軍は地象を相手にして戦略を立て、戦術を考え、それに従って膨大な人員が動くが、それは理解できても、自分の眼では確認することが難しい。
 特に当時は航空機がなかったのだから、伝令という兵士と有線電話線、感度の悪い無電しかない。
 そして、軍隊というものは兵士だけでなく、その7倍近くの輸送要員で成り立っている。
 その輸送要員も指揮するスタッフが必要になる。

 状況はほとんど分からない。
 部下は信頼してくれているが、その部下を死地に突撃させなくてはならない。
 参謀たちの能力を今更云々しようとしても、能力を量るのは唯一、人間性的な判断であり、そんなあやふやなものに数十万の人命を賭けなければならない。
 そして、ここで負けたら日本はほぼ間違いなく中国のように欧米列強の草刈り場になる。

 乃木は何もしなかったように書かれている。
 だが、1000人単位のSF大会なり、80人のIFCONなりMYSCONなり、人を使って組織を動かすことは、責任と不安の嵐であることは私の個人的な体験だけでも分かっている。
 でも、歴史資料では、1個師団が何人の命、何人の思い、何人の人生、何人の絶望と希望を表すのか、優れた洞察力を持ってしても正確には分からない。
 歴史のifを描き続けてきたけれど、歴史を学べば学ぶほど、無限のifの空しさを思い知らされる日々である。
 ナポレオンにせよ、チンギスハンにせよ、優秀な部下をそろえ、そのなかで直接自分で指揮できる部隊を持っていれば、なんとか自分がやっている戦いの趨勢は分かるかもしれない。
 だが、近代戦ではその趨勢を知るためには視覚聴覚ではまず無理、想像力と洞察力敷かなく、そこで不安になって細かく命令すれば不安は伝染する。
 そこで、泰然と黙っているだけで錯綜する司令部を落ち着かせるオーラを持つ指揮官は、これまでの戦場、実際の戦争から現代のシステム開発まで、存在してきた。
 結果を見て無能と断ずるのはたやすい。
 だが、我々がしなければならないことは、結果は分かって当然であるが、それに至るさまざまなプロセスと意思決定のトータルシステムを学ぶことである。

 確かにKOEIの戦国武双のような、一人の英雄がバッタバッタと敵を殲滅できる図式は分かりやすい。
 しかし、実際の組織運営は人間性の問題であり、日露でもあれだけの犠牲があれば異論は山ほど出ただろう。
 階級社会であっても封建社会ではない軍隊組織に改組されているわけで、明治期の士官はそれぞれ確固とした自分を持った志士の覚悟があったという。
 それでもあれだけの責任の中で部下を信じ、異論が出ても容易に動じないでいることは、並みの人間ではできないと思う。

 もちろん、非合理的な判断はあった。
 しかし、旅順攻略について、乃木以外の方法があっただろうか。
 海軍に沿岸砲台から砲をくれ、とあらかじめ言って、海軍がはいそうですかとくれただろうか。
 突撃せずににらみ合っていたら、基本的に軍事の原則で攻勢をかけ続けることで主導権を握り、準備の不足を補うという考えは今でも有効とされる。
 いつ攻撃されるかとビクビクしながら相手を待つより、少ない手勢でも攻撃をしかけることで、より有力な敵を脅かし、行動の決定の自由を奪うことのほうが有利、とこれまでの戦争では名将はしばしばこの原則を使っている。
 今のイラクでの戦争もそうだ。
 米軍は攻勢を仕掛けている間は、途中補給線が苦しくてもイラク軍を火力だけでなく、領域支配の面で有利に動けた。
 米軍は都合のいいときに攻撃を仕掛け、イラク軍を追いかけ回せた。
 だが、テロリストとの戦いで守勢になると、テロリストには攻撃をしかける時と場所を選ぶことのできる有利が生じ、米軍はそれに少しでも抵抗し、主導権を回復しようとファルージャという場所を選び、攻勢をかけ続けている。
 日露でも、旅順攻略にもっと時間をかけて準備をしてから攻勢に移ろうとしたら、旅純の要塞兵はその準備を邪魔する手順としての有利を持ってしまうのだ。
 そう考えると、乃木の判断は少ない味方で次々と要衝を陥落させ、最後に旅順に迫ったが、そこで攻勢を止めなかったことで、苦しい補給状況ではあったが資材も届き、司馬史観で言う海軍砲だけでなく、坑道、トンネルを旅順の堡塁の下まで掘って堡塁を爆破する工兵作戦も実施できた。
 その工兵作戦も海軍砲も、到着と準備が妨害されなかったのは、愚行に思われる白兵突撃で要塞からロシア兵が出撃する自由を奪い続けたからである、という意見は、史家の間でもそれほど異端の意見ではない。
 そして、当時の資料を見ると、乃木更迭論がなかったわけでもない。
 むしろ、定量化できないからこう書いたが、当時の世相はもっときつかったのではないか。
 日露の結果の賠償額の小ささに激怒した日本人は当時の日比谷国会議事堂を焼き討ちにしたぐらいなのだ。 

 結果を見て、結果そうなったのだから始めからそうすればいい、というのは短絡である。

 乃木は、殉死だけじゃないと思う。

 しかし、司馬史観批判でググると左の人ばっかり見つかってげんなりしたなあ。昔、だれかがそういう左の見方ではなく、歴史家としての嘆きを誰かが書いていたと思うのだが。
 そもそも、歴史に正しいだの道徳だの大義だのと言った価値判断を容易に持ち込んじゃいけないんだけどなあ。歴史は調べれば調べるほど複雑で、分からなくなるものだと思う。
 極端な相対主義かも知れないけど、でも自分の人生だって他人に価値判断されるなんてまっぴらでしょ。
 そのときはそうするしかなかった。それだけなんだよなあ。

 まあ、言い切らなくちゃいけないシーンはいっぱいあるし、学問なんてああいえばこういうの域だから、乃木は愚鈍だったと評価するのも自由だし、それを間違っていると言うのも浅い判断だと思うので控える。
 だが、私は陸軍を調べるうえで、旅順に至るまでの薩長の派閥を含めた乃木の戦いの壮絶さを考えれば、今回『零艇』で私が描いた極端な世界と同様、考えることは多世界解釈での世界の多様性を増す事だと思うので、私は敢えて乃木を弁護する。

 →乃木の年譜