運休

 ボジョレを1本飲んで、ひたすら眠っていました。
 後は一日中片づけ。

 いろいろと考えることがあって、逡巡する。
 いや、向こうはもう煮詰まって『そうするしかない』と言うし、私もそうする気力はある。
 でも、どうなんだろ。

 ユキさんと一緒に風邪を引きました。病院に行って薬をもらう。
 ユキさんのほうが重症で抗生物質をもらっていたが、私はイソジンとかいつものPL顆粒とか。
 1日5〜6回うがいをしてくださいとのこと。
 10時に病院について、診察は14時。
 途中、病院の食堂で食事を挟む。
 でも医師に診断してもらった後の解放感は独特だなあ。
 かなりこの病院のシステムに呪詛したくなっていたけれど、診断してもらったら一挙にラクになった。
 だから誰も強く文句を言わないのだろうし、病院もあまり改善する気にならないのだろう。

 夕食はマナル。誰が何と言おうと貧乏人の味方マナル。
 片づけはほぼ終わり、衝動買いしたスタースイートをいじったり。
 しかしヘナヘナな画面表示にやっぱり1980円はこんなものかと思う。

 今日も陸軍史探訪。
 支那事変と満州事変の違いが理解できていない人が多いように思う。
 当時の中国は軍閥が跋扈する戦乱状態にあり、国民党軍も共産党軍もその一つに過ぎなかった。
 しかし国民党軍は中国の政権として国際連盟に認められていたため、この国民党軍と国共合作による共産党軍との戦いは日本対中国の戦争である。
 だが、満州事変は様相が違う。
 満鉄の租借権を得ていた日本は、満鉄、満州鉄道の線路とその付属地のみを領有していた。
 しかし、そのすぐ外では軍閥が邦人を虐殺するなどの事案が発生していた。
 そこで、関東軍は一大決心を持って、邦人保護のために軍閥と戦い、恭順させて満州国という国を建国、傀儡とはいえ、満州地域の中国人民の自強を望んだのだ。
 もちろん、その名目はあっても侵略を期待したよからぬ輩が日本陸軍にもいたわけで、純粋に亜細亜復興のためとは言い切れない。
 しかし、多くの戦争が侵略ではなく、まがりなりにも自衛の色彩を持っていたわけで、満州事変も日本とソ連の間の緩衝地域の安定を望む自衛の戦争であったという大義はある。
 だが、大義があるから戦争をしていいなんて事はない。
 どんな戦争にだって、とってつけたようなものでも大義はある。
 そんな中で、日本人が絶対に忘れてはならないのは、大義も減ったくれもなくイギリスの我利我欲で始まったアヘン戦争である。
 こんなとんでもない国があるから、日本はまだ同じ亜細亜同胞と中国人と新中国・新満州の建国を夢見たのであり、それが夢破れてぐちゃぐちゃになった。
 明治大正期の日本は、食い物にされる中国を見ながら怯えていた。
 列強に食い荒らされないため、必死になった。
 しかし、日露に第一次世界大戦の青島で、いつの間にか日本は列強と肩を並べられると錯覚してしまった。
 それを責めるのは容易い。
 だが、当時の日本人にもやむにやまれぬ事情があったのだ。
 もちろん、私は支那事変も満州事変も、無かった方が良かったと思う。
 かといって、それは後知恵に過ぎないのだ。
 歴史には正義も間違いも存在しない。
 正しいとか正しくないと言ったところで、何も変わりはしない。
 だが、そのなかで、当時の人々の思いを無視し、現在の価値判断で断罪するのはあまりにも酷ではないか。

 勝谷さんがこの前の朝生で『日中戦争は侵略ではなかった』と言ったらしい。
 これは価値判断なのだが、勝谷さんが言いきれなかったのは、歴史に正邪を求めるのは、十字軍的な発想に過ぎないのだと言うことだろう。
 どんな連中にも良いヤツもいれば悪いヤツもいる。
 だが、それに正邪を決めたところで、隣人であることには変わりはないのだし、トラブルは交渉で解決するが、やむにやまれぬ場合、命がけの対立となった場合は、命をかけて戦うしかない。
 もちろん中国の東シナ海でやっていることはよくないし、その非を責めることについて妥協してはならない。
 だが、キ印的に中国を全否定してしまっては、論点がぼやけてしまう。
 論点をクリアにし、何がいけないかを局限することで、外交圧力というのは集中的に作用するのだ。
 中国が何をしようとも、中国のスポーツと文化と政治は別だ。

 そこらへん、勝谷さんはあの睡眠不足のマツリで地雷を踏んだのだろう。
 特にあの番組は司会のやり方とか、声の大きい方が勝つとか、もう呆れるしかないので私はあまり見ない。
 意思決定の段階において、締切も条件もぼやけた議論は単なる時間と体力の空費である。
 決定に至る道の中での論点整理のための議論は必要だが、ゲーム化した議論は生産性を低下させるだけだ。

 十字軍もヒーローもいないこの世界で生きることを強いられるように思えるかも知れないけど、別に今までの世の中だってそうだったのだ。
 自分の思うとおりにいかないからと誰かのせいにしたり、誰かを攻撃して溜飲を下げるのは幼児病なのだ。
 客観視しなさい、などという人がいるが、それも嘘で、『自分という特異点』がある限り、自分を客観視なんかできない。
 だから、自分の手の届く範囲で自分で後かたづけができる程度にやっておく、という無難な結論しかないけど、騒いだところですぐに世の中は動かないし、思うようにはならない。
 私もマンソンを買い、今日その権利書が届いたけど、内心は不安で一杯である。
 家も良くなった。暮らしやすくなった。おかげさまである。
 だが、上手くいかないこともいっぱいある。
 しかし、上手くいかないことを誰かのせいにしてどうなる。
 それに、自分の命を処分するというのは、自分に与えられた可能性世界を、世界を共有する人々を無視して勝手に終了させる傲慢な行いなのだ。
 その点で自殺は自爆テロと同じなのだ。
 苦しくても、生きていける道を探すこと。
 苦難のさなかには難しいけれど、でも『なんとなく死にたい』ぐらいだったら、フルメタルジャケットの教官的に言えばこうなるだろう。
「死ぬのか? 俺のせいで死ぬのか? さっさと死ね!」
 でも、命を絶つほど追い込まれているなら、借金とか経済苦とかであっても、誰かに借金させてくれ以外の相談であれば、たいてい何とかなります。
 つか、命を絶って抗議するほど価値のある凄い世界じゃないでしょ、基本的に。
 じわじわとやっていけばいいんです。