ハウル雑考。
ハウルについて。
いや、ケチを付けることはできる。
端折りすぎとかは後半部はものすごい端折り方だし、理屈とかそんなのはもう吹っ飛んでいるし。
でも、そこでじゃあ端折らないで全部詰めて、理屈もきっちりにしたら?
私はそう思うのである。
とんでもなく嫌味で冗長で説教臭い映画になったと思う。
黒バックのみのスタッフロールも、あれはあれで、確かに悲しいけれど、でもそうならざるを得ないのではないか。
今回、宮崎駿は饒舌な画像に比して、語らないことで語った部分が多いと思う。
つか、言わなくてもわかっとけ。幼心にハウルカッコイーの子供と、オタ心でハウルモエ・ソフィーモエと、人生30年近く生きてきて、『雑想ノート』とかで補完出来ちゃう私らの層には受けているんだし、その他はスルーで良いだろと。
結局ラノベ系統では宮崎作品にインスパイアされてきた書き手が多い。
でも、宮崎作品を越える才能はあるだろうか。
そう思うと、あれとかこれとか、ラノベ周りで騒いでも結局は底の浅さが透けて見える気がする。
こんな感じにしたい、と言うニュアンスはあっても、そうならざるを得ない『書き手としての必死さ』が見えてこない。
こぎれいだし、洒落てはいるけど、アートってそんなもんだったっけ。
自分のできる全てを越えて、無理までやってこその表現ではないか。
自分ができることの中で更に小さく小綺麗にまとめたら、確かに自分という殻は安全である。
でも、それじゃ縮小再生産じゃん。
そこで、ハウルを単純に楽しかった、と見るのは正しいと思う。
圧倒的な表現の力には本当に圧倒される。
しかし、ストーリーがどうとか言うなら、じゃああんたはそこまで必死に描けるか? と問いたくなる。
自らは何もしないくせに出来上がったものにケチだけ付けて、ケチを付けてそれが何なのというと何もない。
単なる文句つけオヤジじゃん。
まあどう感じようと人の勝手だが、しかし今回のハウルについては、多分つまらん連中が『千と千尋』以上にぐちゃぐちゃ言うと思う。
ストーリーが破綻している? じゃあストーリーが破綻しちゃいけないって誰が決めたの?
ご都合主義? ご都合主義でどこが悪い。
結果出来たものがいいんだから、そういう映画としての体裁観での批判というのは次元が低い。
もちろん、私も2度目に冷静に見たとき、宮崎センセイ、某映画の巨匠になっちゃったんですか? と一瞬思った。
ちょっと『ヤバイ!』と思ったけど、それもどうにもならないことに気付いた。
でも、私は今から推測してこう思う。
おきまりの素人規範批評は今回一切通用しない。
今回も文句を付けるなら、相当の覚悟が要るだろう。
その覚悟がなければ、単なる負け犬遠吠え批評である。
混合水栓届く。INAXのBF-M646TL。
現物が届いてからいろいろと分かる。
配管と水栓の接続・固定は割リングの締め付けで行うようで、配管には特にネジを切るとかの何もしないでとにかく袋ナットで締め付ければよいようだ。
立てカラン締めが必要なので、明日買いに行く。今日は近所のホームセンターが休日だった。