細木数子はよゐこ濱口あるいはナイナイ岡村レベルに落ちた。

 ホリエモンは2ちゃん連動型の『夕焼けニャンニャン』をやりたいんじゃないのかとユキさんの寝言。なぞ。

 審査中2本、大図検討2本となり、ようやく去年11月の引っ越し以来のタマ不足が解消される。じゃんじゃん書いて行くのみ。

 細木数子も落ちたなあ。昔は噂の占い師として神秘のベールの向こうだったけど、だんだん和田アキ子みたいないわゆる『芸能界ご意見番レベル』になって、そこからさらに落ちてよゐこ濱口レベルのことを言うようになったようだ。
 濱口もナイナイ岡村も、普通に話している分には面白い方向に持っていけるけど、自然とか地球とか、そういうモノについてはムチャクチャ弱い。話す言葉が著しく軽い。
 でも、細木数子もその段階になって来ちゃったんだよなあ。

 そして世の中の不条理さとの個人の戦いはケースバイケースなんだし、結局世の中一般に言える事なんて毒にも薬にもならないモノになり、さらにそこで文脈力も国語力ももとからないともうどうしようもない。
 
 その点で南無阿弥陀仏の一言でいいと見切った浄土宗の精神は、難しく考えた上の苦しみの中から絞り出されたものとして良いなと思う。
 難しく考えても結局無駄なのだ。だが、難しく考えた上で無駄だと考えるのと、キセル証明で無駄だと考えるのが一緒に見える人が多すぎる。人間の生きるという一大事業は一言で表せないけど、そういうもの、記号を使って思考停止させないと現実に生きていけないのも事実。みんなが僧侶になることはできない。修行も物事の道理を求める修行は賢い人は日常の仕事の中でそれと同じことをしていけるけれど、文脈力のない人は結局僧侶の修行しか修行と言われても思いつかない。
 どの仕事も『道』なのだ。極めればそれぞれに極意があり、その存在が分かってもなお終わることはない。なぜなら、どの職業も敵がいて、全力で追いかけられ全力で逃げられるからだ。
 でも、その無限に終わらない戦いを拒否することはできない。人間生きることは戦いである。
 安らぎも必要だけれど戦いから逃げ続けることはできない。そしてその戦いは戦わない安全圏の野次馬や、商売敵の同業者が相手でであるように見えても、心静かに考えれば、結局はオノレという一番皮肉屋で一番卑怯な相手である自分という人間との戦いなのだ。
 結果は自ずと出てくるだけで、それについて野次馬や同業者がどうこう言うけど、それはどうでも良いこと。自己の研鑽に終わりはない。
 焦ったり、言葉を荒げたりすることも人間だからあることだ。だが、心静かに考えれば、答えも対応策も自分の中にある。というか、自分しか自分を解決できない。ただ、焦っているとそれが見えない。そこで一言落ち着けと南無阿弥陀仏とかを使うのだと思う。
 感謝、祈りの言葉としては、一番普通だけど、南無阿弥陀仏というのは良いなと思う。

 意外と知らない人がいるけど、『白骨の御文章』というのが浄土真宗にある。『朝には紅顔なれど夕べには白骨となれる身なり』と人を葬送することについて書いた時代を超えた名文だと思う。『黒い雨』では被曝して死んだ人々の葬礼でお坊さんが足りずにこの『白骨の御文章』だけを覚えた主人公がそれを読んでお経の代わりにすると言うシーンが出てくる。こう言うところで仏教というのは良いなと思う。