桜砧忌

 知り合いの作家、砧大蔵さんが亡くなったと伝え聞く。彼から度々病気の話は聞いていたし、ガンとかADHDとかいろいろ言っていたのだが、最近は回復傾向とのことだったので、話を聞いて、まさか、と思った。
 まさか、と思いつつかけた電話は彼のお母様につながった。

 また先に逝かれてしまった。
 強烈に自分も追いたくなる。だが自分にはユキさんもいるし、親もいるし、自殺者が出たマンションがどういう評価を受けるかも考えると、そんなことは絶対にできないのだが、消えてなくなりたくなる。
 なぜ彼が、と思う。
 初めは淡い交わりをと思っていたが、パーティーで同席したこともあるし、仕事について突っ込んだ話をしたこともあった。
 BBSでちょっとケンカめいたこともしたけど、仲直りもしてきた。
 彼の実情は、ある程度伺っていたものの、何もできなかった。
 精神科領域の疾患があるらしかったので、受診の際は何が生活上困っているかメモをして問題を切り分けることを提案したり、スランプの時のメールの交換とかもあった。
 謹んで冥福を祈るしかできない。ご遺族の心中はいかばかりかと思う。当人も苦しかっただろう。言葉に詰まる。
 それでも、私は生きなくちゃいけない。今日も。

 悲しい結末に、こういう言い方しかできないが、彼はもう俗世でやることをやりきったんだと思う。
 生きていれば悲しみもあるし、何よりも不確定で不安だ。彼の岸に渡った彼にはもう不安はない。彼の生きているときの苦しみを思えば、彼は今、安らぎの中にあると思うし、思いたい。
 彼の長く苦しい戦いは終わったのだ。

 結婚した我々を祝ってくれたのも砧さんだった。そんなことを思うと、今仕事を抱えているので伺ってもお線香をあげる程度のことしかできないけれど、伺おうかと迷う。ちょっと遠いこともあるし。どうしよう。

 結局、訪問した(13日)。道程が片道100kmあって私のMRワゴンはこれで総走行キロ数10000kmを越えた。
 住所を知っていたのでカーナビで検索し到着。途中、カーナビの指示を取り違えて無駄な移動もしたが、何とかたどりつく。
 お母様と話。生前、砧さんは収入がないとか言っていたけれど、その実、お母様は何度も『大丈夫、1年や2年収入が無くても暮らせるから』となだめていたらしい。
 直接の動機は、『もう作品を書けない』と言っていた、とお母様。
 位牌には映画の映の一字が入っていた。映画映像関係の仕事をして、その上でCMの仕事もした砧さん。最後に小説家になったのだけど、もしかしたら現在の小説家の道楽でしかありえない経済的などうしようもなさと、映画映像関係の衰退をみてきたことと、CM関係の仕事のようにちゃんと企画があって仕事をするというシステムがないところとか、そういうミスマッチに思い詰めたのかも知れない。
 私は、もとより大学受験放棄、バイトは冷蔵倉庫バイトを3日でやめただけで、数年前まで親に寄生してきたのだけれど、その背景には、こういう小説家になるなんてのは面の皮厚くないとニートだのなんだの言われるし、かといって昼の仕事に就くと昼の仕事の面白さに気付いてしまって小説を書かなくても良くなってしまう、というのをとある本で小説家に似た職業の話でやっていたので、面の皮厚くと思ってやってきた。
 書きたい小説があったから書いてきた。繊細なようで図太い私の神経はそこから生まれたけれど、でもまだ厚くなりきれず、何度も迷っていた。
 昨日、鉄道模型をやったのも、その迷いが、キーボードに向かうと『嗚呼、砧さんどういう気持ちでキー叩いていたんだろうなあ』と思ってしまい、その思いがどんどん大きくなってどうにもならなくなったので、気を紛らせるためにやっていたのもある。
 でも、まったく紛れなかった。

 そして、そんな思いを抱えていたまま、なんとか関東近郊の砧さんの家にたどり着いたのだった。

 お葬式は終わっていた。式は11日・12日で、命日の4月6日からずいぶんたってしまったとお母さま。急なことで未だ落ち着かないご様子だった。
 砧さんのお父様が砧さんの20代の時に亡くなっていたのを初めて聞き、砧さんの苦しみはいかばかりだったのかと思う。
 深夜のファミレスで、ユキさんと私を含めた仲間と語り合ったあの夜を思い出す。
 あれからまた会えると思っていたのだが、会えなかった。
 帰り道、『砧さん、いいお母さんじゃないですか、大丈夫ですよ』と、ふと言葉に出したくなって、なぜ言いたくなったのか思うと切なくなり、言っても彼はもう答えてはくれないのだと更に切なくなる。
 砧さんは仕事に行き詰まったと言っていたけれど、現に死にきれない今の私を考えると、神さまは砧さんを許したんじゃないかと思う。ポリティカルフィクションとしてやってきた歩みは、それはそれで検討せねばならない問題としてやらねばならないけど、砧さんはやることはやったのだ。
 未熟な私には、まだいろいろとやらなければならないことがある。

 砧さんのお母様には、ご自分を責めぬよう、原因を探らぬようにお話しする。原因を探したところで生き返るわけでもなく、ただツライだけなのだから。
 でも考えてしまうんだよなあ。
 ただ、砧さんは立派な方でした、私にとって立派な先輩でしたと申し上げた。
 
 伺った最後の最後まで、砧さんが『いやあ、別の方向性を探ってさあ、ペンネーム変えたんだよ』と、にゅっと現れてくれることを心の中でずっと期待していた。
 かなわなかった。
 現実だった。

 帰宅19時。
 家に帰って、泣く。
 作家の創造する世界は、その死で完全に凍り付いてしまう。
 作家が形にしないものは、一切残らない。
 泣きながらキーを叩く。
 書かなかったものは、残らないのだ。
 私には、これしかできない。
 砧さんのこと、砧さんが確かにここにいて、この世で作品を問うたことを、私はこうして書き残したい。

 作者がペンネームを使うというのは、ペンネームを持った作者としての人格を作るということであり、ペンネームを使い分ける人だっている。そのペンネームごとに、作品と読者に関わっていくわけで、一つの作者というフィクションであり、世界なのだ。

 私のこのblogだって、私が書きたいから書いているもので、私の書きたいという思いを表現する一種のフィクションなのだ。

 砧さんの死について、書くのはどうかという意見が寄せられた。
 でも、表現された時点で全ての事象は現実ではなく、厳密な意味では全てフィクションとなる。
 時々勘違いする人がいるけど、表現とはそういうものだ。
 私も現実をありのままに垂れ流しているように見えて、書いていないこともいっぱいある。逆に書きたくて自分のお金を払ってまで書くこともある。

 そして、最も大事なこと。
 これは単なる個人の死ではない。
 世に作品を問うた作家の死なのだ。
 作家は公に批評される栄誉と共に、生き死に全てを筆名というフィクションで描き続けるのが宿命であり、その終わりもまたその宿命の終焉として、公の場で仲間の作家によって書かれるのが本来だと思う。
 私ごときで申し訳ないが、私はこういう形で砧さんを見送りたい。
 そして、また会いたい。
 強くそう思う。

 なおこの一件はご遺族の承諾を得て書かせていただきました。ご厚意に感謝します。