山本周五郎のすごさ

 昔読んだんだけど思い出せなかったので、書庫で発掘、原稿をやりながら読み返す。
 戦前戦中の作だけど、キレのあまりの良さに絶句する。いやあ、昔読んだんだけど、すっかり忘れてるよ。また感動してしまった。


 

花杖記 (新潮文庫)

花杖記 (新潮文庫)

 『花杖記』のうちの『武道無門』『良人の鎧』『備前名弓伝』を仕事の合間に何とか読んだけど、すごいのなんのって。
 毎回主人公の侍が臆病だったり癇癪持ちだったり途惚けていたりと多彩で、しかも毎回ちゃんとどんでん返し。


 特に『備前名弓伝』がすさまじく格好良い。
 備前藩で弓道を学ぶものの、一本の矢も的に当てない青地三之丞。それを見て、弓道の師範は『みどころがある』と繰り返すばかり。いくらみどころでも当てなきゃどうにもならんだろうというツッコミを叔父が言うが、『さればにございます』しか言わず、平然と飯を食べている。よくよく聞くと、的に当てることを学んでいるのではなく、弓道を学んでいるのだという。
 ええい屁理屈め、みたいになるけれど、そこで備前藩主池田光政は興味を持つ。
 なにしろ、光政が鷹狩りで雁を狩り、馬にぶら下げて戻ってくると、三之丞は「今日の牛蒡(ごぼう)狩りはいかがでしたか」と言ってしまう。狩りをして獲物を振る舞うと言っても、結局は獲物の肉は全員に行き渡らず、下々のモノに回る頃には牛蒡だらけである。そんな虚飾で殺生をするとはなんだ、と三之丞は皮肉るのである。
 ところが、光政は懐の広い男であって、そうか、とその真意を察し、ちゃんと三之丞にも肉が回るようにしよう、と受け止めつつ、彼の皮肉の内に秘めた、無益な殺生を嫌いながらも真髄を究めようという心に感銘するのだ。
 その武芸好きの光政、弓の稽古など武道の稽古の音を聞きながら執務するのが大好きなほどだが、その稽古の中で、明らかに他の弓の音と違う、響の深さ、美しさに驚き、執務を中断して稽古を見ると、その音がその三之丞なのである。
 で、その備前に他の国の殿様が参勤交代の途中に訪れ、『備前の殿は武術武術と言うが、ではその弓道で人を食べたり多くの家畜を食べてきたこの檻の中の悪い狼を馬場に放つから、馬上から弓でしとめることはできますか』と言う。浅野というその殿様は、実は光政と江戸城でも年の頃も同じくて仲も良い。しかし、光政の武芸好きにくさっていて、皮肉を言おうというつもりなのである。
 しかし、池田光政はうけてたち、弓の優秀者を呼び、それを始める。
 ところが流石に連戦錬磨の狼、普通の弓の優秀者では矢を当てることができない。射手の様子をよく観察し、泰然と構えてわずかな動作で弓を避ける。
 そこで三之丞が登場する。三之丞はそのような座興に弓道は関係ないとさっさと勤めを終えて下城していたのだが、それを主君のためと言われ、そういうことであればと登城し、命矢と呼ばれる二の矢を持たずに騎馬で馬場に現れる。
 そして、馬をぐるぐると走らせる。狼も、その尋常ではない気で危険を悟って走る。
 で、狼を走らせて疲れさせるのかと思われたのに、さに非ず。
 走っている狼は走っている姿勢しか取れない。
 座っていれば避けられるけど、走っている時には身体は走ることが精一杯で、自由に矢をかわすことはできない。それを三之丞は気合一閃、持ったたった一本の矢で見事仕止める。
 備前藩の名誉を守り、三之丞は褒められる。それまでぼんやりしていると思われていたのに手のひら返し。
 でも三之丞はそれを褒める祝宴でも芋煮をほおばり、話題には『さればでございます』と答えるのみ。
 しかしそこには三之丞の手柄を快く思わない者がいる。
 命矢、二の矢を持たないのは武士道を理解していない証拠と突っかかってくる。
 しかし、三之丞はちっとも動じない。
 その突っかかる方について、『自分に高慢の癖があるからこそ、人の高慢はよけい眼に付くらしい。』と地の文で書いてしまう山本周五郎。辛辣だなあ。
 で、執拗に突っかかってくるので、三之丞は『弓道の作法は命矢を持つにあるのではなく、一矢で仕止めるところにあるのでござる』と答え、芋煮をお代わりする。
『しかし万一射損じたらどうなさる』と突っかかってくると、『いや、万一にも射損ずるようでは、五の矢、十の矢を持つとも無駄でござろう』とばっさり。
 で、そう明快に言われると、突っかかった方も、もうすっかり頭に血が上って武道の論議でもなんでもなく、単なる議論の勝ち負けにしか目がいかない。
 で、言いがかりをつけ、勝負をしようと言い出すのだ。
 決闘になるのだが、三之丞はもっと深いところまで考えていた……。


 以降は本書をお買い求め頂いてご覧頂くということで。
 それから後一波乱あるのだが、それも素晴らしいのだ。ラストシーンの鮮やかさにはまさに黒澤明が巨匠と呼ばれる前のチャンバラ映画の頃のような渋いキレのある姿である。
 途惚けた三之丞の見極めていたそういった道の本質とかが、まさに侍の道である。読んでさわやかな読後感。スカッとした。短篇集なので、通勤だけでなく外回りの電車の中でも読んですっきり楽しめると思います。
 この『花杖記』の『良人の鎧』では、私が『綾瀬』でやって、『せっかくシャープな海戦だったのに最後プリンになった』と苦情が届いた件についての回答が既に書いてあった。なんと昭和17年の時点ですでに私のそのプリンと呼ばれる部分がちゃんと山本周五郎に書かれているのである。びっくり。目配りが甘かったです。あと、山本周五郎が書けているのに、同じことを書いてプリンにしてしまった自分の腕の無さにも反省。
 世の中にはまだまだ凄い人がいる。そういう凄い人の遺伝子を継いでいくところに文化の発展があり、なおかつ素晴らしいものを自分のものにするところに創作を自分の内側に深めていく真髄があるのだろう。
 私の書評が自分語りになっていると揶揄する方がいるが、ならば読まずとも結構。私は自分の道の探求のために読書をし、全ての読書は私の小説という経験であり、全ては私の営みなのだ。それがいやなら世の中にはblogはいくらでもある。それをご覧になられればよろしい。私は自分の芸のために読書と資料読みをする。書評家の書評とは違って当然である。大きなお世話。
 で、話を元に戻すけど、なんだかんだ言って、こういう武士の姿、潔さ、機微、決意、勇気の鮮やかさと、武門に嫁いだ女の決意がすがすがしい。この武士道とはまさにジュダイだろう。主君のために捧げるべき武士の命を決闘で無駄に散らそうなどとは主君を軽んじている、と『備前名弓伝』では書かれているが、これもまた武士道。素晴らしい。
 ある意味、本当にスターウォーズの世界を深められるのは、こういう名作を生んだ文化圏で暮らし、遺伝子を受け継いでそれを咀嚼した日本人クリエイターが一番なのではないかとすら思うのです。
 素晴らしい一冊です。おすすめ。