小早川に見る柴門ふみの時代

 しかし恋愛関係のドロドロ見たいって人、わからん。種族が違うんだろうな。
 つか、恋愛ドラマって、登場人物の一人一人が毅然とすればそれでどろどろさはなくなり、さらにドラマ自身が解消してしまうのではないか。みな全て未練だの嫉妬だの、愛情を相手にどうしてほしいという自分のイメージの押しつけとしか思っていないバカがバカ同士でぐちゅぐちゅやっている、としか思えないのだが。
 人間はそりゃ人を好きになることはある。でも、生きていくためには仕事というモノがあるだろう。生きていく目的とか。少なくともそれを考えないと、誰かがどうしたからと誰かの責任にして自分のない不安定な関係しか作れない。
 そう言う点で『NANA』のハチという役も、こういう感覚だからすこしずつ噂を聞いている限り、極度にイライラさせられそうなので『NANA』を見ない理由にしていた。
 しかし、バブル期にこういうドロドロドラマが流行っていたけど、でも今こんなの見る余裕がある人っているんだろうか。大泉洋見たさに見る人々もいるらしいけど、私たち夫婦は忙しくてテレビはもう録画して空いた時間に見るようになり、セルフデマンドみたいな状態になっているのだし、この柴門ふみの小早川なんてのはプレビュー番組でガッカリして見る気がしない。財前先生があんな格好悪い役になるなんて。私たちの財前五郎を返せ!
 他人の情けなさを見ている余裕はない。もっと凛とした、毅然とした人を見たい。その点、いろいろ問題はあったけど白い巨塔の財前先生は、間違っていたけど格好良かった。あのドラマが受けたのは、そういうドラマを推進する芯の強さに演出がよくマッチしていたからだろう。
 でも、ということはわれわれは今だにあの時代、昭和を超えられないのか? ちょっと慄然とする。
 もうちょっとしっかりした話を書こうよ。せっかく書ける環境にあるんだからさ。