ノーコメント、ノートラックバック。

 教育勅語
 http://www.meijijingu.or.jp/japanese/gosai/educate/
 昔から良いと思っていたのだが、それがウェブ時代になってアップされている。


 結局天皇の神格化は昭和になってから極端に進んだらしい。よくないことである。
 しかし教育勅語の元々のあり方では、天皇でさえも皇祖というようにさらに敬うものがあるところが実にいい。そして、教育勅語も文明開化の悪影響を防ぐために陛下が皇祖に誓う言葉であり、その勅語西園寺公望が時代に合わせて改訂しようとしたり、柔軟であったらしい。
 戦前は、決して北朝鮮の現在なんぞと一緒にされては困るのである。ぜんぜんちがうのである。なんでもたとえ話にすればいいと思ったら大間違いである。
 歴史にせよ、物事とは、真剣に学べば学ぶほど、何かにたとえて簡単に表現できたり、分かるようになったりするものではないと思わされるものだ。
 むしろ、難しさと玄妙さに身を正していくところにこそ事物の検討の心髄はある。
 私はその点で、事物の認識を深めるのに議論なんぞ必要ないと思っている。だからコメント欄はやらないし、トラックバックも表示していない。
 物事の理解は、一人心静かに学んでいくものであって、誰かと楽しむ議論などというのは全くの時間の無駄である。
 第一、『他人コントローラー』で書いたとおり、学んだことで自分が変わるのが大事であって、他人に啓蒙なんてのは思い上がりも甚だしい。
 相手はそれはそれで理解しているのだ。それと自分のモノが一致しないところで、一致させる必要なんてないのである。その人にはそこにいたる人生があり、酸いも甘いもあったわけで、それを言葉の端を捕まえて教えてやるなんて思い上がりである。
 考えれば考えるほど難しく深いものが事物である。私はその難しさを面白いと思うし、自分が学んだそのことを書くことはしても、誰かを啓蒙しようなんて思わない。ましてや何かムーブメントを起こそうなどとも思わない。マイブームはあっても、自分の中でやっているわけで、それを公表したところで他人が見たくないと言うなら、見なければ良いだけだ。
 ただ一人静かに検討し、検討の結果を書くだけで、別に誰かから意見をいただくことは必要ないと思っている。結局『荒らしの相手をするのも荒らし』であり、議論を白熱させたところで有意義なことは一つもない。万事公論に決すべしというが、それは聖徳太子のころ、まだ議論をする人々が限られていた時代の話。
 今のようにだれもが馬鹿なことができる時代には、傾聴すべき意見は、馬鹿でもウェブにいられる時代、志ある人々は馬鹿よりも一段上だからすでにちゃんと有志によってウェブにアップされていたり、言及されているので、それを私は学ぶだけである。
 そして、ウェブ上で不勉強な意見を見たとしても、心静かに立ち去るのみである。それでいいのだ。
 結局、事物の認識とは、自分で転んで、自分で傷を負ったりしながら血肉で分かっていくものである。それを転ぶ前からああだこうだいわれても五月蠅いだけだ。その事物の味を理解できる年齢に達して始めて味が分かるものであり、味が分かる準備もできていないのに押し売りされるのはまっぴらごめんである。
 それではブログではないという人もいるかもしれないが、ブログの定義なんて人それぞれで良いではないか。まさしくそれは主観の押し売りであり、他人コントローラーがほしいガキの理屈である。
 私は97年以来、ウェブ日記としてFTP日記をやっていて、ブログ勃興時に当時不安定だったブラウザとcgiを使って書き込むブログを信頼ならないと思っていた。私はこの日記もひとつの作品として自分の血肉と思って心血を注いでいる。交流のツールなどではない。ましてや寂しいから誰かにコメントをほしいなどとも思わない。
 安定的になったブラウザとcgiとサーバで、FTPする必要がなくezwebiモードで読める形式になっているところで便利さと安定性を勘案し、ブログへの移行を決意し、ココログを借りた。ところがniftyの手違いで削除せざるを得なくなり、そこでhatenaに移動した。それだけのことである。
 そして、これからもノーコメントで良いと思っている。うちにコメントがこなくても、よそのブログやテキストを見ていれば勉強になるし、自ら望んで勉強してこそ血肉となるというものだ。それをお節介に教えてやるなんて何様なのか。ましてや楽しむ議論などで時間を空費したくない。
 私としては軍事板のまとめサイトとかを読んでいるし、他にもいくつか勉強になるサイトをブックマークしている。そこで私を思ったことを書く。それだけだ。
 ちなみに、こう思うまでに大石英司先生のブログを見て、ああ先生苦労なさっているなと思いながら、大石先生のウェブでの戦いの結果を見て、匿名の馬鹿どもは相手にする必要はないと思った。
 私はコメントをされれば、コメントをきちんと返さないと気が済まないタチだし、それにつけ込まれてさんざん荒らされて心も体も疲れ切ったこともあった。そこで大石先生や竹熊健太郎さんのようにコメント欄で馬鹿が騒いでも放置したままでいられるほど自分が大きな器ではないことを自覚している。
 だからアクセス数はのびないが、別にそれで良いと思っている。
 私には私の人生の仕事がある。人生を賭ける夢がある。そのために勉強しているのであって、それをそばで支えてくれるユキさんもいるし、ちっとも寂しくない。
 友達にも困っていない。ウェブ友達なんてあやふやな、テキストをやりとりしながら内心こっちが消えることを望んでいるかもしれない相手に私は自分のオールを任せたくないし、本当の友達がいる。もっとも苦しかったときに手をさしのべてくれた人が、実際に会える距離にいる。それで十分だ。
 ウェブで徒党を組まないと、いつでも徒党の誰かに加勢してもらえるオープンな、自分のホームゲームにしないと何も言えない、一人では何もできない寂しくチキンな人々とは違うのである。
 そういう人々は、コメント欄を閉じると言論圧殺などという。馬鹿じゃないか。他人のコメント欄を借りて自分を表現できないのが言論圧殺などとは大笑いである。どっちにしろ文句があれば対抗サイトを立ち上げるんでしょ、どうせ。その上で第一家主の権利の範囲内のコメント欄で家主に文句たれるのってのはケンカ売ってるわけでしょ。はなからケンカ腰ではないか。それを回避するのは家主としては至極あたりまえである。進んでケンカをするのは暇で事物の心髄よりもその場の荒れた感触を活発な議論だと誤認する馬鹿だけである。
 それにこうしてコメント欄をとじるのを逃げなどというが、これも馬鹿な考えである。誰でも馬鹿騒ぎは回避するよ。第一、構ってくれないからだだをこねて『逃げた』などと言うのだ。幼児性でひきこもり、自分は自分の不勉強すら自覚もできないで自分は変わりたくないくせに他人に変わってほしいと他人をコントロールする欲望のままに動き、それを見透かされてカマッテもらえないからだだをこねているだけだ。
 結局、自分で何かを表現したり、何かを作ったりできない、誰かにけちをつけて満足したり、誰かを不愉快にすることが楽しいという病気の段階の人は、病院へ行けばいいのである。精神が未熟な幼児のままなのだ。
 私は精神科医でもないし、医者の資格もない。カウンセラーになるつもりもない。だからそういう迷惑な人、困った人には距離を置く。至極当然のことである。それをそうやって距離を置かれると逃げられたと思うのは、自分中心の世界観しか持てないオコサマである。知能が未発達なのである。
 逃げられたと思っているかもしれない。しかし、違う。
 あまりの馬鹿さにドンビキしたのだ。
 馬鹿はカマッテほしいのである。ママの愛情が足りなかったのである。
 病院へ行け。話はそれからだ。