『心の不思議を解き明かす ユング心理学入門』と、物語の消費

臨床ユング心理学入門 (PHP新書)

臨床ユング心理学入門 (PHP新書)

心のしくみを探る―ユング心理学入門〈2〉 (PHP新書)

心のしくみを探る―ユング心理学入門〈2〉 (PHP新書)

 ユング心理学は心を病んだ人なら一度は触って、ああ分析されたいと思うだろうものである。
 だが、日本のユング派の河合隼雄がいうところでは、分析して原因が見つかって、原因を除去しても、心のなかではどの要素も関係しあい支えあっているので、原因が無くなったということでまたバランスが崩れてしまうという。つまり、犯人を探しても、犯罪の傷跡はのこり、それは決して犯人が見つかる前より良くなるということではないのだ。
 で、ここでツッコミを入れたくなる。
 じゃあなぜ心理分析をするのか、治療にならないではないかと。
 まさしくそうなのである。今の精神医学では、休養と、休養できるように心を落ち着かせる薬物療法が基本なのである。
 で、それがどれぐらい効果があるかと言うと、なんと森田療法で森田医師の指導を受けていても解決しなかった老齢の統合失調症の患者が、犬種が終わってそこそこのかけだしの精神科医の安定剤であっさりよくなってしまったという話がある。
 しかし、それはユング心理学という迷路の本質の上澄みであるようだ。
 ユング心理学は、私も統合失調症発病後11年近くになるが、自分を省みるとき、実に役立つのである。
 つまり、誰かに治して欲しいと思っているうちは解決しない。自分の意志を定め、自分の人生の目的、目標を見出す上で、手がかりになる。私だけかもしれないけど。
 それと、心的エネルギーの話は、薬物療法と通院精神療法でも基礎であって、まず身体を休ませ、落ち着かせれば冷静に判断できるし、また人間はその心の中に既に安定化のシステムがあり、必要に応じて他者との関係を調整するのだから、なにも精神分析をして誰とはつきあうなとか誰とつきあえと深く介入することはせずとも治癒する、という方針も、歴史的にはフロイトユング以来の分析家の戦いの結果であると思う。決して無駄ではなかった。その過程があるからこそ、最後に薬物と精神療法がいいと戻れたのであって、単にユングを電波と言いきるのは正確ではないと思う。
 私は内的世界と外的世界は呼応すると思っているし、フラクタルでもそういう考えがあるし、ユングでもそういう記述がある。
 つまり、すべては自分の問題であり、外の誰かを恨んだり変えたりすることではないのだ。


 映画「ブレイブストーリー」でもそういうシーンがある。
 身に起きた苦しい運命に、運命を変えたいと願う。こんな運命は受けいれられないと思う。
 それは誰しもである。
 しかし、誰も運命からは逃れられない。
 だからこそ、運命を受けいれ、その運命のなかで自分を変え、自分の本当になすべき仕事をさがし、運命と共存して行くしかないのである。
 あたりまえの話だけど、ところがこれが理解できない人がうじゃうじゃといるから、ユング錬金術夢分析という形を取って説明したようだ。
 つまり、本当のことを言われると絶望したり、逆恨みをする人でも、それが心理学の結果だとか、精神分析の結果だとか、神の御導きだなどと言うと、心を開いて結果同じく運命を受けいれたりするのである。
 つまり心理学とは、連想ゲームや宗教のような部分もあるが、真髄はやはり受容理論なあのである。運命を受けいれ、そのなかで前向きになっていくことなのだ。
 ところが、心理学や精神医学に政治と甘えを持ちこみ、成熟に向かうように誘導すべき現場で無責任に自分探しなどと言いだす人々がいる。
 自分探しは、感受性が暴走する子供から大人への成長過程で必要なことであるし、結論はあたりまえであっても、その充実過程を経験することが大事なのだ。
 その点で、『指輪物語』においては指輪と言う持て余してしまう力を処分するという、心のエネルギーの制御を身に着ける少年少女の成長を描いているようにも思える。
 ファンタジーの物語とは、神話と同じく、荒ぶる大人の身体の力があるのに、子供の心のままで制御できない状態を、心を成長させて力を制御するところにあるのだろう。
 そこでユングをバカに出来ないところがある。


 ファンタジー小説のなかには、今のラノベのバカのひとつ覚えのような定番展開だけのものもあるが、ちゃんとそういうものでも、それなりに青少年の心に響くような心の成長になっていることがあるのだ。
 出来不出来を論ずるのは勝手だが、だが本来は物語の鑑賞態度とは、そんな比較や星いくつという採点をする評論家的態度ではないのだ。
 そんなことは誰でも出来ることである。それを規範批評といって、恥ずかしいからやめて欲しい。
 評論が出来るように成長したなら、つぎはその物語の成立過程を考え、そして自分なりに受けとめることが大事なのだ。類型に分類するのも結局はそれも文芸評論の世界では昔の恥ずかしい態度なのだ。


 第一、ラノベを評論できることがえらいと思っている人がいるけど、大間違いである。
 ラノベは子供が読めるように省略をしたり図式化や誇張をして書いているのだから、大人なら「ふーん」と余裕を持って読めてあたりまえなのである。
 大人なのにお子様ランチを頼んで、ぺろりと平らげたことで、自分が大食いの資格がある、グルメの資格があると勘違いしているに等しいのだ。
 そのあたりまえに気づかずに自分は頭がいいと誤解している人がいるから、「絶望した! バカがのさばるウェブに絶望した!」と思ってしまうのである。
 そこで、とあるウェブで知った読書家とお話をしたところ、さすが彼はちゃんとそんなことは通過して、お子様ランチをお子様ランチとして受けとめ、その上でお子様ランチとして評価し、お子様ランチという世界の奥深さを慎み深く、しかし正確に論じていた。数も量も読んでいた。さすがである。


 で、その彼と私が危惧したのが、そういう良い意味でお子様ランチであるべきファンタジーが次々とゲームや映画化されている現在である。
 本来、そういう長編ファンタジー小説とは、食べ物の食育と同じ、読書による発育、読育の題材として、あえて長編である必要があるのである。登場人物に感情を移入させ、大冒険をするなかで、結論に達するべきなのである。
 が、今のファンタジーの映画化は、その過程の大冒険をスポイルし、結論もそのスポイルにあわせて甘口すぎるのである。
 食育がちょっと食べにくいものも食べることで成長につながるように、読育も、読むのに時間がかかることがかえって結論を物語の力で力づけることが出来るようになっていることが多い。『指輪物語』にしろ、『ゲド戦記』にろ、『ナルニア国物語』にしろ、本来はじっくり味わうべきものが、CGで映像にされてしまう。
 この時点で子供は想像力を働かせてテキストから世界を読み取る過程を奪われてしまう。


 その上でストーリーが映画の上映時間にあわせて省略される。これでは心でじっくりと味わい、子供が自分の体験と符合させてのめりこむことができない。
 その結果、本来なら擬似体験として感じるべき結論が、本来途中の冒険や挑戦のご褒美としてもらえるはずなのに、時間にあわせて説教くさくならないように省略されてしまう。


 これはまさしく物語のファーストフード化である。それに読書人として心をいためてしまうのだ。つまり、名作として長く読み継がれるべきものが、次々と商業の論理で消費されてしまい、今後にそういった良質のファンタジーが生まれ、生き残れるかと心配してしまう。
ハリー・ポッター』シリーズも、確かに売れて映画も良く出来ているが、しかし、とうの作者自身、商業の都合に疲れ果てたのか、最終巻で登場人物が死ぬなどと言っている。
 その心理は、不遜ながら痛いほど良く分かる。商業というものは、一度乗ってしまうと、確かに読者を飛躍的に増やしてくれるし、名誉も金もくれる。だが、自分の中にあった作品の真心を商業の論理で消費される一面もあるのだ。
 スティーブン・キングが彼女にアドバイスしたようだ。やっぱりキングはベテランだからなあ。


 ではその物語の鑑賞という体験を擬似体験としてゲームでできるというかもしれないが、それも本質が分かっていない話である。
 基本的にオフラインのゲームでは、すべてのプレイヤーの行動の結果は、あらかじめゲームの作り手によって予想され、用意されている。
 つまり、ゲームの中の自由度などと言うのは、オフラインで行うプレステとかのゲームでは、すべて作り手の手のひらの上なのである。
 コンピュータは思うとおりには動かない。作ったとおりに動くにすぎないのだ。
 その点で、ゲームでの感動とは、作られた感動であり、しかもその感動の価値を上げるためにレベルだのヒットポイントだのフラグだのが用意されているだけだ。
 しかもその用意されたパラメーターを満たすのはコンピュータの操作という単純作業であり、そこでプレイヤーが体験する冒険は、作り手に取ってはゲームバランスの調整と言う名での「じらし」を数値で定めただけの手抜きなのだ。
 私もずいぶんメガドライブのRPGをやったし、プレステでファイナルファンタジーとかをやったが、そう思うにいたるのである。
 もちろん、それが今風のお子様ランチとして必要なのかもしれない。
 だが、なんだかお子様ランチにしてもどうにもインスタント的に思えてしまう。もともとゲームを作りたくて手当たり次第に勉強した結果、逆にこう思ってしまうのだ。
 だからゲームを全否定はしない。ファイナルファンタジー10では、CGと物語で描かれたナギ節や異界というものが、仏教とキリスト教などの習合的世界を演出し、それが映像化されたということを私は評価している。オリジナリティと考察の深みがマッチする予感があった。
 本来ならあの世界こそ、攻略本ではなく解説本として解釈解説して広げて欲しかったようだが、残念ながら商業的に難しいのかゲームをしっかり鑑賞できる人が少ないのか、そういうゲーム世界ではなく、ゲームとしての枝葉末節ばかりが取り上げられているのは非常に残念である。
 そこで、意識的にそういうことのできるデザイナーがやれば、ゲームというメディアは、お子様ランチとして子供が子供時代から卒業して行くにあたって必要な物語という栄養を、さらに深める可能性があるかもしれないと思っている。

 評論の世界が結局最後に行きついた記号論では、「S/Z」のように、パロディのようにしてしまいながら、そのなかで元の作品のなかの作者と評論者が出会うような広がりなのだと思う。
 そこでSS、サイドストーリーというのは、ある意味文芸評論としてのありかたのひとつなのかなと思う。

 だが、もっとも強力で意義のある評論とは、評論もSSでもなく、創作であると思う。それも、評論の技術と知識を駆使して描く創作だ。
 でも、これはなかなかできない。なにしろ、自分が評論されるなんて思わないで高みの見物を決め込んだ、お子様ランチにおとなげなくケチをつける評論の人々は、自分で書いてみると、かならず眼高手低、見るのとやるのは大違いということを思い知らされるのである。
 それは、私もそうだし、伊丹十三監督もお書きである。評論の出来る作家は、自分の作家力を一人で自己批判してしまうのだ。もちろんそれを超えなくてはならないのだが、なかなか難しい。
 それをやったところで、さらに編集者が見たりするから、結局世に出る物語というのは、もうほとんどの批判を予想し尽くし、それでも訴えたいことがあり、それを編集さんや編集部が納得したから出たのだということを考えなくてはならない。
 もちろん人間のやること、ミスもあるし、見識の足りなさ、不勉強もある。
 書くのは生身の人間なのだ。神様ではないのだ。
 だが、それを覚悟して身を晒すから作家なのだ。
 それに敬意を払えない読者は、読者である資格がない。作品とは、とくに小説においては、読書という体験は作者と読者の協力で達成されるものである。
 ちなみにオフラインのゲームと書いたが、オンラインゲームではまた事情が違う。多のプレイヤーがいるし、その間でコミュニュケーションがある。これは可能性もあるが、しかし物語を作るのはゲームのデザイナーではない。
 デザイナーは、ある意味ゲーム世界が崩壊しないように運営する苦労もあるけれど、しかしその代わり、冒険や挑戦を描写するというところではほとんどなにもしないことになる。そこでTRPGのマスターとプレイヤーの協力関係が必要になる。そこは小説と同じである。


 話をずいぶん広げてしまったが、でも、批評の技術も使いながら創作する上で、ユングはほぼ作家の間での基本的常識である。
 そこで実は昔、とある賞の授賞式で、受賞者の医者が宮部みゆきさんとかの前でユングがうんぬんと演説して、招待されたこっちが恥ずかしくなったことがある。
 作家はみな、自らの批評力と戦い、挑戦してきているのだ。その戦いにはとうぜんユング本人の精神遍歴、論考していった過程と比較できるほどの蓄積があると思って当然なのだ。
 仏陀に教えを説いているようで、恥ずかしかったなあ。
 まあ私のアメノミナカ理論も、本職の物理の人に聞くと、まあ物語だから、SFなんだから気にしなくても良いんじゃないかな、と言われたりする。私自身、物理学を進めるために小説を書くなんて不遜は思っていないのだが、それでも今でも時折強烈に恥ずかしくなる。
 でも、書きたい世界がある。人生の目標として書き始め、書きつづけている真っ只中である。
 なかなか大人のディナーというには味の深みが足りず、お子様ランチとしては懲りすぎの嫌いを自分の作品に感じるが、でもそれはそれで、別に名誉や金を目的とするのではなく、作品の内的世界の充実を目指しているので、仕方がない部分もあるし、かといって、ちゃんと独学とはいえ批評や作劇の基本からやっているだけに、読み返すと案外やってきたなあと述懐するところもあるし、97年の発表以来、9年を経て、日々苦しみ、日々学び、日々創作してきたことに、今ようやく「悔いなし!」と思うこともある。
 まさに私の日々は、創作という戦場での戦いの日々であった。
 そこでひとつの達成点が、「プリンセス・プラスティック・プレミア」3部作は、一生かけても書けるかどうかわからない到達点だっただけに、書けて幸せだった。残念ながらハヤカワからは出せなかったが、それでもいいと思っている。

 プリンセスプラスティック・プレミア3部作
  デカップルド・ディフェンス
http://princess072.web.infoseek.co.jp/ppp6.htm

  ナウト・ナウト
http://princess072.web.infoseek.co.jp/ppp7.htm

  プライマリー・プラネット
http://princess072.web.infoseek.co.jp/ppp8.htm

 
 延々と書き連ねてしまったが、こんなことを書きたくなるほど、懐かしいまでのユングのエッセンスをとらえているのがこの「心の不思議を解き明かす」である。私としては基礎知識としてフロイトのリビドー、なんでも性的エネルギーであるというのをユングは芸術や政治にもあると考えたり、さらにその人間のエネルギーの量は定まっていて、無意識で消費してしまうと意識の層にエネルギーが回らなくなってしまうという話など、きちんと書いている。
 だが、そのなかで『共時性(シンクロニティ)』に言及できなかったのは作者も末尾で自身で書いているが、私も惜しいと思う。
 このシンクロニティは、これも書きだしたら非常に面白い概念なのだが、同時に手に負えなくなりかねない概念でもある。
 これは内的世界と外的世界の呼応の応用で、内的世界と呼応した外的世界が、別の人の内的世界に呼応し、物理的に関係の無かった人々、内的世界と内的世界を、ときに物理的な障壁があっても結び付けてしまったりする作用で、虫の知らせなどもこれだとされる。
 オカルティックなので難しいが、しかしSFを考える上で、慎重に考えれば非常に応用が利く。
 私のアメノミナカシステムは、このシンクロニティの概念からも始まったのだ。
 ある意味、アメノミナカはNexzip座標系という概念で世界が満たされていることになっているので、共時性もエレガントに説明できる。私としては、そのNexzipは遠隔作用を簡単に説明できる点で押している。なにしろ、物体が実在するのでは無く、遠隔作用だけが存在して世界を作っているとしているのだから。
 だが、Nexzip座標が遍在するのを形を変えたエーテル説ではないことをどう峻別して書くか、注意しているところである。


 残念ながら、この本の作者は最後にオチをつけようと思ったらしく、ワイマール期のドイツと現代日本を結びつけるという非常に凡庸な問題提起をして終わっている。
 これがとても残念である。
 悪や権威など、悪い意味で使われがちな力も、日本的な母性と父性のバランスを見なおすのにヒントになると言っているのに、最後にそれだもの。
 攻撃性も調和も、ユングはさらに深い意味で言っていると途中で書いている。つまり、普遍性を持った上で現れる攻撃性は、人間の内心は光と闇、正義と悪が共存する上でバランスが崩れて発生する良くないものもあれば、もっと深く、本来なすべき正義をなすことは攻撃性ではあっても心のバランスのせいにしてはいけない、などと書いている。
 そう考えれば、正義をなすことを性急な攻撃性・外的世界に対する一方的な悪意ではないといっているのだから、現実に今回の靖国神社問題を例に取れば、自由と人権という普遍的なものを主張しただけであって攻撃ではないとも言えるし、しかし逆に自殺者増加や雇用形態の不安定化や商業マスコミの欺瞞などのストレスが、人々の心のバランスを崩して特定アジアへの不満として噴出しているという解釈も出来るのだ。私はしないけど。
 しかしそういったナショナリズムの健全と病的の境目を論じずに単にワイマール時代をもちだすのは、途中の「夢分析で『あれもあるこれもある』というのは分析ではない」と断じている姿勢と矛盾しているのではないか。
 もちろんそこまで話を広げたら入門書ではなくなってしまうので割愛したのだろうが、しかし最後のワイマール期の話は蛇足のように思えてしまう。途中でユングが危険視されたナチズムとの関係も論じているのだから、もっと別の深い結語につなげて欲しかった。もったいない。
 でも、ユングを知らない人は読んでみて、その上で不満を感じるまでに勉強するに値すると思う。まあユング本なんていっぱいあるし、マンガ化されてもいるのだが、ユングを知ることは内的世界というものを治める大人としての教養として必須に思う。
 この拙文をお読みの方は、決してユングをやくにたたないと過小評価せず、しっかりと勉強した上で評価して欲しいと思う。
 電波とだけでは言いきれない深みが、ユングの世界にはあるのだ。