ミッション・インポッシブル3

 22日、厚木パルコが休業日だったので、海老名に行ってTOHOシネマで映画。
 シネマイレージカードのポイントがたまっていたので使うと、なんとその日はプレミアシートの部屋に通常料金で入れる日であった。
 プレミアの名が付くだけあってさすがに居心地は快適そのもの。椅子は跳ね上げ式ではないしっかりとしたソファ、テーブルも一人一つ。足置きまであった。すばらしい。でも映画2本分を払うのはちょっと抵抗があるなあ。
 まあ、今回は運が良かったということで。
 で、映画。
 これがもう痛快の一言。冒頭はラストを持って来たのだけど、ストレスフルにはならなかった。なんとなく『トゥルー・ライズ』を意識したのかなというIMF職員なのに結婚というネタである。例の橋も出てきたし。でもあの橋で襲ってきたあの飛行機は無人機だったのかな。
 冒頭ではトムクルーズ演じるイーサンハントが結婚パーティー。交通局勤めのお役人を装っていたのだが、電話で呼び出されて秘密の合流場所で聞いたのは、一線を退きIMFの教官となったイーサンの教え子で最初にミッション参加資格を得た女の子がラビットフットという謎がらみで消息を絶ったため、救出しなければならないというもの。
 で、それがすごいのなんの。指揮車には無人銃座のコントローラーがあったりして、たった数人でプロの殺し屋14人と銃撃戦。
 それで何とか救出したものの、女の子の頭の中には極小の爆弾が。しかも脱出したヘリを追いかけてくるのが戦闘ヘリ。
 必死の空中戦のさなか、女の子の頭の爆弾を灼き切ろうと充電した電気ショック装置のチャージが間に合わず、戦闘ヘリは風力発電のプロペラでまっぷたつにしたものの、女の子は死亡。
 そこでパキスタン北朝鮮に情報を売りつけて、それでいながら足取りのつかめないその商人がバチカンの慈善イベントに出席するのをとらえようとする。
 そこでも魅力的なギミック満載。イーサンがその商人と入れ替わるのに使うマスクは現地で作っちゃうし(自動的に着色までする)、監視カメラにはディスプレイをぺったりひっつけてごまかし、さらに着替えてガードマンに化けたり司教に化けたり。
 で、そこで上手いのが、そういうギミックがあっても一気に全部できるのではなく、ちゃんと時間との競争になったり、『志村後ろ後ろー!』みたいになるタイトさがすごい。
 そこからもさらに展開していく。いや、どんでん返しもここまでくるとすごいよ。
 
 で、思ったんだけど、昔売り込みに行ったとき、図面とプログラムリストをさわりだけ原稿に入れて、雰囲気を表現しようとしたのだけど、文章で勝負しろと言われてしまったことがあった。
 そこでアメリカはどうなのかと思ったらジュラシックパークの原書、思いっきり図面は出るわDNAコードは出るわ、やりたい放題。
 この落差は何だ。
 まあ、そういう審査側はタッチパネルという単語を使うだけでわかんないと放り出すからなあ。銀行ATMでお金をおろすことはないのかと言ったら『私はいつも出金の用紙を書いている』と言われたし。化石か。
 だいたい小説でテクノロジーを入れないなんて無理だろ。何気ない推理小説だって、昔のには電車のベンチレーターなんて言葉が出てくるけど、名作と言うことになっている。
 要するに、私と仕事したくなかったんだろう。それはそれでしかたないけどさ。
 まあ別に審査側は他人のカネで出版して、どうなっても正社員だから困ることはないって言うしなあ。『信長の棺』だって、原稿段階で渡されて3社ぐらい没になり、4社めであの大ヒットになったらしいけど、そのスルーした3社の編集者にはペナルティーはなにもないし。
 第一、無人銃座、無人銃架だったら2000年にすでに私書いてたよ。没ったけどさ。あのころロボットの本で、銃架の無人化というのがあった。
 結局そういう世の中のテクノロジーだの力学だのに目を向けないからイジイジした私小説ばっかりになるんじゃないのか。警察小説だって、勘のいい人はもうちゃんとやってるけど、そういうのを通す審査側は限られているし。
 愚痴になってしまったが、しかしああいうのびのびと書きたいものがかける、見たいモノを作れる人たちって、格好良いなあ。
 私は私でプリンセス・プラスティックを書いているけど、悔しい。
 で、家に帰って『R2』と部内呼称していたリサイクルビンの続編を発掘してみたり。ちゃんとできているんだけど、これも塩漬けだったからなあ。微妙に調整して販売に出そうかなと思い詰める。
 もともと、小説にしろ映画にしろ、受け手と作り手の協創であって、こう言うのを読みたいという人と、こういうのを読んで欲しいという人の出会いがあって成立するものであって、それを読みたい人、読者を馬鹿にして、しかもその馬鹿にする理由が自分が理解できないから読者はもっと理解できないと言う驕りに根ざしている。で、じゃあ専門外と言うことで留保して、専門内の語句訂正だけでもと思ったらそれも穴がある。
 こういう無駄なやりとりをして商業出版しても、商業とは名ばかりで実質はとんでもなかったりする。
 そう考えると講談社Kさんはすごかったなあ。プリンセス・プラスティックの講談社版でジュラシックパークのネタがあるのだが、それ分かってたもんな。すごい人だった。
 折り数も暗算してたし、第一自分で作家を発掘する意欲があった。
 今はそんな人いないもんなあ。いつの間にか、小説を描いて自分の内的世界を表現する表現者ではなく、下請け零細自営業だもんなあ。
 M:I:3を見て、この映画も日本では作れないなと思った。発想力も、それを絵にする力も日本にはない。アニメも結果、結局もともとのシナリオづくりで2流だし。子供向けに2流にしたと思っているかも知れないけど、じゃあ子供が始めて見る映画なり小説なりが2流だったら、その子はその後ずっと小説や映画を2流のモノと思って生きていくんだよ。
 サンリオ・ピューロランドでちょっと前まで『ONE』というミュージカルをやっていた。宮本亜門はそれを作るとき、子供の始めて出会うミュージカルだからこそ、子供だましではいけないのだと熱意を込めた。ちょっとまえお話を伺った小池修一郎さんがそのあとのミュージカルを作ったけど、みな、自己表現をするなかで、決して自分のなかの最高のものを、誰に対しても出そうと必死だった。けっして子供だまし、どうせわかんないだろ、という姿勢は取らなかった。
 でも、そうじゃない描き手が増えた気がする。気のせいであって欲しいのだが、子供向けであっても内容は決して子供だましであってはならないことをわすれている人々がいる気がする。
 ホント気のせいであって欲しい。