世の中の2ちゃんねる化

 坂東眞砂子の子猫殺し問題。
 対する大石英司さんの意見、そもそも殺すぐらいなら飼うな、という意見が全く正しい気がする。
 そこまで話題になりたかったのかな。時の人になりたかったのかな。釣れたとか燃料投下とか思ってるんだろうか。
 馬鹿馬鹿しい。勘違いも甚だしい。もともとなんというか、こういう独特の傲慢さがある人だった。何作か読んでいたけど、なんだか傲慢さに耐えきれなかった。ホラーが流行ったので、どんなもんだろうと思ったけど、図太くて傲慢な作風としか思えなかったなあ。
 まあ、今は小説描きなんて零細下請け自営業なんだから、こうでもしないと目立てないと思ったのかな。
 『生きる意味が不明』なのは世の中ではなく、板東さん当人がそうなんじゃないの? おかしいよ。
 私は小説を描くことに生きる意味を求めているし、それが受けようが受けなかろうが移り気な世の中のことだから考えても仕方ないと思っているんだけどな。
 彼女が在住するフランス領タヒチにも動物愛護法のようなものはちゃんとあるんだから、処罰すべきだと思う。痛み悲しみは自分が引き受けたというが、それは投げてるアンタの自己憐憫だけじゃん。それに避妊はあたりまえだよ。もともと犬猫は人間と一緒に暮らすように交配されているんだし、ナニを今更。
 避妊と子猫殺しの差も分かってないし、そのエッセーも、言葉選びの段階でぜんぜんセンスが感じられない。
 私は確かこの板東眞砂子の『死国』を読んで、ホラーなんてこんなモノかとがっかりしてしまった記憶がある。とことん死も心も冒涜していた。それも無神経に。確信を持ってやっているならともかく、神経図太すぎだよみたいな筆致に、こんなのでなければ売れないのなら、売れなくて結構と思った。
 ぶっちゃけ、生と死を深く考えるようになった、というより、感覚が麻痺しただけなんじゃないか?
 傲慢だなあ。



 改めて考えるけど、犬猫を飼うと、彼ら・彼女らに、明確な気持ち、意志、感情、喜怒哀楽があるのが分かる。
 坂東眞砂子はその気持ちや意志が芽生えた子猫を殺している。
 その子猫たちは何を思って死んだのだろう。生まれてすぐに飼い主に捨てられ、放り落とされたのだ。
 しかし、不妊手術をすれば、彼ら・彼女たちは生まれることもなく、悲しみを感じることもなく、無のままで自由にいられたのだ。
 生まれるという事は、無として存在していたものが、肉体を持ち、肉体を通じてこの世界とつながることである。
 つまり、生まれないものはどうやったって何も感じはしないのだ。
 それをわざわざ生まれさせ、苦痛を強いる。
 こんな馬鹿な行いがあるだろうか。
 しかも、それを『死生観の現れ』だと『理解する』人がいる。
 理解力にもほどがある。バカはどうひっくり返ってもバカなのだ。板東眞砂子に死生観も減ったくれもあるもんか。ただ自分の都合が悪ければ生き死にを自由にできるという一番傲慢で鈍感な態度だろ。
 結局それすらも商売のネタになると思うからコラムに書くわけだろ。
 とんでもない。その上日本がいやだ、都会がいやだ、人間がいやだとタヒチに移住したという。
 だったらそんないやな日本や都会や人間にそんな馬鹿な考えを売りつけるな。
 タヒチにこもって出てくるな。
 芸術表現なら何でも許されるというなら、昔表現だと言って金魚をミキサーにかけた馬鹿な写真家がいたが、それと同列以下だ。
 こんな傲慢な芸術があってたまるものか。これが芸術というなら、強制収容所や原爆投下も芸術になるだろう。
 芸術だからと何でも免罪されると思ったら大間違いだ。
 そうなるのも、結局芸術を真剣に考えないから、そういう芸術もありますねみたいな傍観者的態度になるのだ。
 芸術作品と作家は別という人もいるが、それも芸術の鑑賞態度としては間違っている。
 芸術とは、作家自身が肉体と精神をすべて使って表現するものなのだ。
 そこには、作家自身のすべての考え、すべての善意と悪意がすべて統合され、格となって現れる。
 そして、アートとは、考えるものではなく、感じるものだ。
 坂東眞砂子には、私は鈍感さと傲慢さしか感じない。
 結局『釣り』とか『燃料投下』程度の意味しか持たないのだ。真面目に芸術の態度などと思うほうがどうかしている。
 死生観とはそういう安易なものではない。死生観を語るには、まさしく自分で聖書並みの作品を書くぐらいの苦しみが必要なのだ。
 私はそれをプリンセス・プラスティックでやっている。まだまだ途上だが、しかし聖書を読み、仏教を学ぶ中で、私は独自の死生観などというものは傲慢でしかないことを分かっているつもりだ。まともでちゃんと考えた死生観は人類が歴史の中で結晶させている。そこで独自の死生観などというのは傲慢の極致。結局奇形にたいする好奇心程度のものしか根底には存在しない。
 まあ、それでも坂東眞砂子をありがたがる人がいるからなあ。
 直木賞を取ったと言っても、まあ、あの賞は作家のリサイクル的な面も強くなってきたし、芥川賞なんか、そのうち犬が受賞するよ。タッチパッドかなんかで展開決めて、ゴーストライターが書くとか。話題性のある賞と言うだけで、選考委員自身、もう審美眼も減ったくれもない。私自身、29年間小説と評論を読み続けて、今の選考委員の作家が昔どうやってバカにされていたかを覚えている。ただ、それを言うともう虚構化した文壇が本当に崩壊するから、だから虚構に虚構を架して維持している。それが今の小説という業界だ。とくに島田雅彦なんか、言うだけ言うけどブーメランで帰ってくる人ではないか。島田雅彦ってそんな他の人を滅多くたに言えるほど上手かったっけ。疑問。評論の文章は書けると譲っても、本当の作家の値打ちは作品の文章で量るべきだ。
 どっちにしろ、ろくでもない。


 あと、もっとビックリしたのが坂東眞砂子の行為は『間引き』であるという話。
 あのなあ。呆れて口が外れるよ。
 農村ではあたりまえと言うが、じゃあその農村ではその間引きで殺したものに敬意を表したり、供養をしたり、それを殺生として心に感じたりしないというのか?
 それって都会人に死生観がないといいながら、都会も農村もバカにしてるだろ。
 生と死は厳粛なものだろ。誰しも生まれた以上生きなくてはいけないし、いずれ死んでいく。
 そこに敬意や供養の心があって当然だろ。それは原人と呼ばれていた太古の人間にもあった感覚ではないか。
 原人が死者に花をくべた後が見つかったと言われている。
 しかし、間引きだの農村ではアタリマエだのという人々、結局そういう人々は、命を見ながらその命に何も感じない馬鹿者だ。もう生きることと死ぬことの不思議すら、言葉の上の戯れに興じる中で感じなくなっているのだ。
 一つの命が、数字の1でしかない人々。一つの命に、一つの宇宙があり、一つのかけがえのない歴史があることに思い至れない馬鹿ども。
 ほんと、呆れて仕方がない。反吐が出る。
 バカばっかりだ。絶望した! バカばっかりのこの世の中に絶望した!