駅改修

 よねでん線小倉志井駅の改修。


 出発案内板を作りこんだものの、いまいち良く見えず。
 小倉志井をはじめ、よねでん線は有人改札が基本。

 一番の懸案だった小倉嵐山駅のホーム。
 カーブをあわせ損ねて隙間ができていたので、改修。


 とある方からもっと撮影に時間をかけよといわれ、そうだなあと思う。
 いつも原稿で煮詰まったときに煮詰まり解消で模型をやっているわけで、本業の小説のアイディアなりモーメントなりが思いつけば机に戻らざるを得ず、どうしても時間不足になる。いつも7時ごろ起きて翌2時頃眠る生活なので、もう24時間のうちの19時間を仕事に使っているわけで、その隙間の20分とかを使って撮影するので、無理っぽい。
 でも、模型撮影を通じて、何気ない写真でもそれを撮影するためにどれだけの手間がかかったかを想像できるようになった。
 まるで絵に描いたように撮影するというのは無理なのだ。カメラを数ミリずらしただけで構図は崩れてしまうし、その構図だってLCDファインダーで見ているときは良くても、PCで拡大するとがっかりだったりというのは良くある。
 むずかしいなあ。

 というわけで、またすばらしい写真を頂いてしまった。
 この領域に向けて、何とかやっていきたいなあ。


 あと、なんか、小説について『もったいない』とか、『もっと推敲しろ』とか言う人もいる。まあ、そういう人に限って無料でアップしてあるプレビューしか読んでいないのだけれども。
 はっきり言うと、私が思うに、もう文章を上手くするとか、そういう方向を目指していってもどうにもならないなと思うのです。
 第一文章上手い人はたくさんいるし、なかには文章は上手いけどアイディアは凡庸だったり、たいして考えていなくても文章上手い人は一杯いる。
 私は限られた時間の中で、私の中にあるプリンセス・プラスティック世界をすべて表示せねばならない。
 テクニックもそのうち身に付くかも知れないけど、そんなもの身に付くまで何も表現せずに黙っていることはできないのだ。


 私が思ったのは、私がなぜ書いているか。
 別に儲けたいとか、有名になりたいとか、そういうのはどうでもいい。
 私は私の親や、祖父母や、それ以前の世代から受け継いできたイメージする遺伝子を継承しているし、その遺伝子の関係、縁によって書ける環境を手にした。
 書ける環境にあるのは私がどうかしたからではない。
 そうなるように運命に許され、書けと示されているからだ。
 私が書いているのではない。私に連なる遺伝子が書いているのだ。
 私自身、自分を下手だなと思うときは良くある。
 でも、その私が、その遺伝子の流れを自分勝手にぷつんと切ってしまうわけには行かないのだ。
 書くということは、私が書きたいのではない。私に連なる歴史によって、書かざるを得ないのだ。


 だから、下手だとかどうとか言っても、どうにもならない。私は全力で書いているわけで、それ以上を求められても私にはどうしようもない。いつの日かそのレベルに達するのをお待ちいただくしかない。
 ましてやユキさん宛に私へのアドバイスを伝えるなんて金輪際やめていただきたい。
 アドバイスできる立場かどうか、よく考えて欲しい。まあ、直木賞とか賞をがんがん取っちゃうような文豪で、そして私とユキさんの生活を丸抱えしてくれるようなことだったらアドバイスの図式があるかも知れないけどさ、なんで私たちの選んで、必死に維持して、必死にやっていることに、何の責任関係もなく、何の背景となるキャリアも知識もないくせにアドバイスできてしまうのか、それが不思議でならない。
 まあ、それだけ頭が悪いんだろうけどさ。
 はっきり言う。
 そんなにイヤなら読むな。読まんで結構。
 私がウェブに小説をアップしていることで何かアナタの財布を傷つけましたか?
 べつに買いもしないのに『読む気力がそがれた』などといちいちメールを送ってくるから、ああ、またバカが来た、ホント、バカばっかりのこの世界に絶望した! のだ。
 生活の面倒を見てくれるならアドバイス聞かせてもらいましょう。月30万近く仕送ってくれるなら聞く耳持てるかも。
 ほんと、大きなお世話である。


 まあ、そういう人いるんだけどね。
 自分でそれをやってもいないくせに、頭のちょっとだけで反射的に『これこうしたらいい』、なんてのは。もう何にも深く考えない反射神経だけで生きている人々。
 現実に模型なり、仕事なりで自分で何かを作っているのなら、そんな小手先でどうこう『アドバイス』しちゃうオコサマのバカさ加減は良く分かると思う。
 私自身は何人か、自分でものを作り出している現場の人々を知っている。模型にしたって、なるほど上手いなという人々がいる。
 もう私は彼らに勝てないと思うし、それだけのスキルを持っていると尊敬している。
 だからこそ、ちょっと聞いただけで、そうだなと思う。
 そういう人々は、アドバイスなんて言わなくても、自然と現実で実施できる策をちゃんと考えてくれる。
 それこそ本当のアドバイスである。同じ道を歩んで、先を行っているものにしか、アドバイスはできないのだ。
 同じ道で、同じ苦しみを体験した上で話すから、現実的なことを言える。
 でも、コメントを付けたり、評論ぶって話す人々は、同じ道を歩んでいない。
 歩んでいるのなら、それはちゃんとわかるように世の中できている。
 故にアドバイスなどありえないのだ。


 ホント、この仕事をやっていて、他の仕事と同様、人にはランクがあるなと思う。
 『兵隊で言うとどのくらい?』みたいな。
 悲しいけれど、人間の出来というものは、はっきりと分かってしまうのだ。
 それゆえに、2等兵程度しかないものが、中佐クラスの人にその人の専門のことに門外漢のままアドバイスしてたりすると、2等兵のバカさ加減に悲しくなり、私はそういうのを見ると悲しいを通り越して絶望してしまう。


 人間に出来不出来がある。
 そう思いたくない時期があった。
 皆平等だと思いたかった。
 でも、世の中にそんなことは絶対にないのだ。