サムライカアサンと米田淳一の野望

サムライカアサン 1 (クイーンズコミックス)

サムライカアサン 1 (クイーンズコミックス)

サムライカアサン 2 (クイーンズコミックス)

サムライカアサン 2 (クイーンズコミックス)

 例によって最新刊の書影がないのがはまぞうamazonクオリティ。
 いや、でもこのマンガほんといいわ。最近の萌えだのなんだのとというのは私には良く理解できないし、というか本質を見失っている気がしてならないのだが、結局いずれみな生きていくのだから萌えるのは瞬間であって、永遠に続かない。いずれ嫁さんと出会ったり、子供ができたり、実家との関係にいろいろ考えたりと生きていくことは続く。その中でサムライカアサンはギャグマンガでありながら、過剰なほど子供が好きなオカン(伊佐木よいこ)と高校生の息子、そしてそれを支えているお父さんの非常に優しいギャグマンガである。
 この本には愛が詰まっている。決してLove&Peaceなんて歌い上げるのでもない。かといって日常ともちょっとずれている。そのズレ具合がこの難しい年頃の息子とオカンとオトンの間でボケツッコミしながら繰り広げられるシーンを説教に陥らず、ギャグとして成立させている。
 さらに偉いことにこの息子に彼女がいる。この彼女も考えればちょっと泣ける話があるのだが、決して後ろ向きにならない。キャラクターが調和して描かれるギャグは、決して関西芸人のコテコテでもなく、某ロンブーみたいなえげつないものでもなく、かといってオカンの暴走ぶりは手抜きない。
 私として、作劇のあり方はすべて相似形を描きながらスケールが違う中でその相似形を崩してキャラを作るフラクタルであると思っている。そして、そのフラクタルなキャラクターたちを構成する世界がカオスに陥り、それが秩序度を失って崩壊するかと見せてさらなるフラクタルが見えて調和する、それこそが落語などの現代的な解釈であると思っている。
 そう思うと、この『サムライカアサン』は、私が言うこの作劇の構造を、決して広げすぎることなく、しかし矮小することもなく、ジャストサイズで行っている。すばらしいの一言。
 もともとは『ハチミツとクローバー』が会社を変え、ヤングユーがなくなってコーラスになってそこで偶然であったマンガなのだが、どうにも最近の書店事情というのが万引きとか立ち読み常習などの事情悪化への書店側や出版社の不信があり、どうにもどのマンガ誌、特に月刊誌は付録を付けるというコウジツの元に立ち読み禁止にしている感じがしている。
 しかし、マンガに限らず文芸作品というのはパブロンがないからプレコールにするみたいな互換性はない。ジパングが読めなければ頭文字Dが読めればいい、とはならない。ものすごく細分化する中で採算が取りにくくなっていく中で私はウェブ販売の実験をやっているけど、そういうニーズの細分化の中で、過去の超名作のような大ヒットを出せば確かに経営は安定するだろうけど、この時代に猫も杓子も読むような世代も趣味も越えてしまう超名作が生まれるとはとうてい思えない。
 『ハチミツとクローバー』も好きだし、『のだめカンタービレ』も好きだ。『ジパング』はチャフを使うのは来るなと思ったけれどあちこちツッコミどころがありつつ、でもあの作者ならどういうオチを作るだろうかとなおも期待してしまう。『頭文字D』はもうなんだかなだけど、でもまだ見守ろうと思っている。だが、こういうヒット作のオンパレードが、はたして世代を越えているかと思うと、そうは思えないのだ。
 マンションの仕事で出会う人に何気なく話しても、同世代であっても全然共通の話題にならない。世代が違えばもっと駄目である。
 つまりニーズは狭く深くなっているのであって、幅が広がっているわけではない。しかしながら、作品の中にはその狭いニーズの中にも広がりを持たせなければならない。となると明らかにコストオーバーするのだ。いい話を書いてもバカウケしない、というところはそこにある。だいたいこういうマンガだってウン万部と売れていても、あーなんか売れてるみたいだねー、以上にはならないのに、読者はその一作の中に世界を求め、それに呼応して作者が世界を深めていくことで人気が成立している。
 それを、『どーんと受けなきゃ』(吾妻ひでお失踪日記のふたりと5人を書かせた編集者)みたいな夢を追っているうちにどんどん足下が崩れていって現状があるのではないだろうか。確かに採算線は上がっている。それをクリアするには売れなければならない。そのためにはできるだけみんなに読んで欲しい。で出てきたのがアンケート主義。
 でも、落ち着いて考えて見ようよ。この流通革命の時代、インクと紙をあんなバカデッカイトラックで納期ギリギリになって運んで流通させるビジネスが果たしてこの時代に合っているのだろうかと。どう考えても前時代的だ。
 もっと低いところで採算が取れるようにコストを下げ、その上で作劇、世界構築を展開するべきだろう。
 つまり、もう商業出版が会社の金でギャンブルができるみたいな幸せな時代は終わりつつあるのだ。そんな優秀でやる気のある編集者は偉くなって現場を去っていった。そのあとにはさまざまに苦しんでいながら企画会議で没、経営層で没となって本の出せない編集と作家がのこり、逆に採算を逆転させて読者からも作者からも収益を得る協力出版なんてものまでできた。
 でも、今の私の感覚では、かつてプリンセス・プラスティックのコミック化で寸前で涙をのんだかわせさんの『ケッタ・ゴール』がかわせさんのページで公開されているが、今のPCの画面は基本的にXGA、1000ドット表示ぐらいが主流であり(うちのアクセス解析の結果)、800ドットでもコミック1ページはなんとか表示できる。もうVGA(640ドット)は過去のものであり、これから高解像度化をすすめるであろうPCとウェブでは、もうモノクロのコミックであればなにも紙に印刷せずとも流通可能になりつつあるのではないか。
 特に読書端末なんて者は必要ないし、PDFなんてバカでっかいものも必要ない。そこそこ料金を回収できればいいのであって、それは別に新たな技術屋への発注でなくてもウェブ流通にちょっとキーロックをつけて、そこから不法コピーするヤツはそれはそれで取り締まれるのだ。ちなみにそういう不法コピーには刑事罰が適用されるようになったのである。
 で、べつにP2Pなんてみみっちい技術も特に必要ないだろう。残念ながらウィニーの頃と今のPCとウェブシーンはかわりすぎた。アクセスが集中しても、それほど集中を恐れるほど脆弱なネックは少なくなったし、ぎゃくにネックがそこにあるとしても、わざわざP2Pで共有せずともちょっとした投資で充分まかなえる。それでまかなえないなら別のメディアに進出することだってできる。
 そういう堅実な、ギャンブルではなく、正当なビジネスの投資行動として出版の世界を情報流通の世界にする契機がもうすぐ来ると思う。うちはプレーンtxt非暗号化でやっているけどここまでローコストでも収益が上がって今流行のアフィリエイトなどよりはずっと効率的に儲かるし(その分拡大再投資するのでまだ結論できないが)、これが決済システムをさらに簡便にしたりすれば、馬鹿な読書端末だの電子書籍だのは笑い話になってしまう革命が起きると思うし、事実起きつつある。
 その中で、話が大きく膨らみすぎたが、雑誌というものの持っていた団体戦的な、こういうマンガを読みたくて買ったんだろうけど、こういうのもどう? みたいな提案型の投資形態も、結果アンケート主義の行きすぎで似たようなマンガばかり載ったマイナー誌になったり、作家の使い捨てに堕しつつあるのではないか。
 サムライカアサン、私はすごく好きだ。だが、正直言って、このサムライカアサンだけのために今のコーラスは買えない。コーラス自身、私の求めているテイストを探っている感じがしない。残念なことであるが、ところが今の業界で恐ろしいのが、その本誌が売れないと、その中ですこしずつ売れていた作品が本誌とともに強制終了されたりするのだ。
 とくに月刊コミック雑誌はかなり苦しいと聞く。ストーリーマンガをやるには一ヶ月は長すぎるのだ。故にギャグマンガばかりになる。となると背骨となるストーリーマンガが育たなくなり、結局雑誌全体が採算割れするのだ。
 となると、もうコミック雑誌というパッケージはあきらめた方がいいのではないかと思う。
 実は文芸雑誌を含めた活字業界の政治構造も問題にしたいのだが、時間がない。ただ、もう面白いものを読んでもらうために紙とインクと書店流通の時代でもないだろう。フリーペーパー、無料誌が登場するほど採算線を落としたり、もっと工夫できるはずだし、そのなかにはウェブ流通もあり得るだろう。
 サムライカアサンは面白い。本当に面白い。でも、このマンガのためだけにコーラスを買う金はない。でもサムライカアサンの単行本は買おうと思う。でも、そういう購買層を持ったマンガは、いくら支持されてもうち切られてしまう。
 残酷だが、連載漫画に『単行本になったら買うから』というのは、こういう実情を知っていると非常にツライのである。活字ではその代わりに文庫書き下ろしということになるが、マンガ書き下ろし1冊というのは滅多にない。
 その上で経済事情が逼迫している。本が売れないと嘆いたり、万引きやブックオフのせいにしたりしても所詮愚痴の段階だ。本当にビジネスとして面白い話を流通させるビジネスモデルが、もうすぐ生まれるべきなのだと思うし、私もそれをなんとかやりたい。でも、そのためには私にはお金もないし、出資者側に提示できるマーケティングの労力も資金もない。
 かといって今儲かっている大先生たちはべつにそういうすこしずつ売れているいい話を救うことなんかは全然視野に入っていないようだし、そういういい話を求めている人々を満たそうという気持ちもなさそうだ。
 というわけで、私は結局こうやって話を書いている。ビジネスモデルの立ち上げができればすばらしいと思うし、それはそれほど難しいとも思えない。ぶっちゃけ、知り合いの編集さんに声をかけてレーベルにして、最低限のセキュリティと回収システムを組んでやれば、そのたくらみに賛同する作家が集まればもう数日のうちに実現可能な感触すら得ている。
 現実に他の作家にも打ち切りになった話はいっぱいあるし、まさに例のアニメのように打ちきりになった話の続きが読める夢の書店というのは、すぐにでも実現できると思う。
 でも、なのだ。それを実施するには担保がいるのだ。もちろん死蔵された原稿をちょっと暗号化してアップしてカートシステムに登録するだけでいいのだからすぐだし、サーバも私は非力ながら用意している。
 できなくはない。
 でも、私はそこでまだ自分自身の担保性を考えてしまうのだ。
 つまり、私がやろうと言って、どれほど一緒にやってくれる人が集まるか。
 死蔵原稿の復活、という段階で、どの程度一緒にやってくれる人がいるか。
 そこで、すこしずつ話になっているが、懸賞小説への挑戦をしている。
 私には、アイディアはある。少々の力もある。
 でも、まだそれでは足りない。
 それが悔しい。