『二式大艇空戦記』

二式大艇空戦記―海軍八〇一空搭乗員の死闘 (光人社NF文庫)

二式大艇空戦記―海軍八〇一空搭乗員の死闘 (光人社NF文庫)

 読んだ。九七大艇よりはマシとはいえ、当時の航空機の洋上航法を考えただけで途方もない。GPSもILSもなく、ただひたすら天測と偏流測定の推測航法でやっていって(それも航法員が手計算で)、しかも哨戒機なのだから敵艦を見つけても敵艦を攻撃できるほどの武装は積めないのが哨戒なので、敵艦に付属する護衛機に追いかけ回される。
 必死に逃げつつ索敵情報を送信し、敵機を振り切り、さて帰投というと必死の回避機動で機位を失っているわけで、当時の出力も弱く感度も悪い測定器で電波標識を見つけようとしてもそれも難しく、自動操縦はあるにはあるけれど結局他の水上機より優れているとされる二式の操縦性能でも疲労しきった身体で操縦して着水せねばならず、しかも着水したところで帰投した南洋の基地は敵制空圏内となり飛行機乗りなのに飛行機がなくなり、あればあったで特攻命令も出る。
 食事はどんどん粗末になるわ、なんとか潜水艦が救出に来るものの、残す戦友にまた涙。
 この光人社NF文庫ではこの本の他に一式陸攻や中攻乗りの話も似た構成だったが、歴史がまさしくそういう流れだったのだ。
 生き残れたからこうして活字になっているのだが、多くのパイロットが帰ってこなかった。この本でも敵機に喰われるならまだしも、離着水の事故も多く、また航法ミスでの墜落もあり、まさに空を飛ぶことだけで冒険だったのに、それで戦ったと言うから本当に一つの国家と一つの国家が争う戦争の苛烈さにため息が出る。
 見送る同期の機影に一瞬のイヤな影を見て、結果やっぱり墜落したということもあれば、特務中尉でありながら大佐である源田実に『黙れ! 機長は私だ!』と叫ぶが、その判断が正しくて無事着水できて源田も『よかった』と不問にし、その特務中尉が後に古賀GF長官遭難の時に一緒に飛びながら一機だけ遭難しなかったとか、本当に命がけというか、命というものがなんと軽く、そして重いものかとまたしてもため息が出る。この緊迫感とその上での合意、これこそが実録戦記の醍醐味である。
 それでも戦争にしろ何にしろ、一度方針が決まったら組織はどんどん進んでしまう。そこにはもう誰かの責任に帰すとは言い難い戦争というもの、国家というもの、経済というものの大きさがある。
 確かに責任を問わなければ過ちは繰り返されるというかも知れないが、そんな繰り返すなんて単純なものでもない。
 医療過誤の裁判で医者が責められているが、医者が患者を治すのが当たり前であるという前提で裁判が進んでいるのに呆れる。医者の扱う人体はそんな単純なものではない。
 いつの間にか、ドラマや映画で医者をかっこよく描きすぎたせいか、医者が全能のように思われている。しかし、人体もまた一つの自然であり、どんな医者でも100%はありえない。
 同じように、戦争に行った人々も、私は想像しただけで彼らに責任を問うことが出来るというのは傲慢だと思う。彼らの喜怒哀楽を考えると、彼らもまた人間であり、家庭人であり、父や子であったのだ。そして彼らは世の中に出来た小さなズレがすこしずつ拡大していって、重大な結果となったあの戦争に置いて、責任を取れるほど大きな存在ではない。


 なんか天皇メモが最近報道に良く出てくる。右翼が天皇の発言を言えば沈黙するだろうという左翼の考えそうな浅知恵である。
 当時の陛下の気持ちなど、だれがわかり得るものか。誰もわかり得ないのは想像力のある人間であれば、すぐに理解できるだろう。現人神であることを要求されながら神ではないのだ。神が神でなければ人にもなれないのである。何という悲劇!
 ましてや先帝陛下の発言があのように政治利用されると分かれば、今上陛下も、未来の陛下もなにも話さなくなるだろう。左翼は彼らの発言を一方で差別制度の対蹠点として天皇制ごと否定しながら、一方で彼らの発言を政治利用する。ダブルスタンダードではないか。
 日本人はここまでずるくなったかと思うと絶望的になる。いや、日本人全てではないと思いたいが、歴史に対して我々が神のように振る舞い、処断するような思い上がりを続ける限り、我々は歴史を理解することもできないし、日々を糺していくことも出来ない。
 精神医学でも、そういう処断について、『犯人探し』という。病気の原因というトラウマとかナントカと犯人を捜して、捕まえて、取り除けば身体は健康になるかというと、そういう単純な病気ではそうかもしれないが、しかし病もまた身体の一部であって、その一部を失ったことで別の疾患にかかることもある。
 司法警察も同じだ。人殺しを捕まえたことで被害者がよみがえるわけでもない。
 だが犯人を捕まえなければならない。病気も病巣をナントカせねばならない。この二つの中の難しいところに、本当の考える人間としての自己と他者の間で取るべきポリシーのただ一つの線がある。しばしば踏み間違う線であるが、それを語るには技量も、文章の力も量も格段に必要なのだ。
 ちなみに、この『二式大艇空戦記』の著者は、戦場で絶体絶命となった時、父に『南無阿弥陀仏を3回唱えよ』と予科練にはいる時に言われたことを思い出したという。周りに人がいた場合に恥ずかしいと言うと、口の中で密かに唱えよと父は答えたという。
 そして、敵艦の上空に入ってしまい、しかもその直上を突破するしかない状態に陥って、それを口にするのだ。
 だから生きてこられたと言うほどではないにしろ、神秘は確かに存在し、時に人はそれに、科学的にいろいろといえても、力づけられることはある。
 そして、人間は、人間を越える何かを無視した瞬間、猿に戻るのである。
 言葉だけだったら猿山の猿だってボスザルとその配下の間で類似したものを交わしている。
 人間は言葉を持ち、言葉の外に神秘を感じられるから、人間なのだ。
 それを痛感した。