電脳コイルガイドブック読む。

電脳コイル アクセスガイドBOOK

電脳コイル アクセスガイドBOOK


 実に面白い。私なんかはこの前のNHK教育での5話イッキ放送の時に見て、いやあねらい目がことごとくやられちゃったなあと感心して以来毎週録画してみているクチなのだが、ホント、磯光男監督が攻殻に関わったり、もともとはジブリやってたり(『おもいでぽろぽろ』の原画から『エヴァ』原画・設定、劇場『攻殻』や『ラーゼフォン』)と納得のいくキャリアであることにただただなるほどと思う。まさに最短距離で私の好きな方向を突いたなあ。すばらしい。ただただ感服です。
 これからすこしずつコワイ方面にも展開するとあって、いやじつにいい。あのイサコの怖い話のなかの1つ残った線が拡張され、オカルトに近いところと科学SF的な面が合わさっていくだろう。いい。『lain』を思い出しちゃったよ。
 果たしてどういう決着点に行くのか。コンパクトにまとめるためかヤサコの父がけっこうクリティカルな役職にあることが設定されているのも注目。実験都市という設定も本当にいいし(あの霧が実は都市の描画能力の限界だというからシビレル)、あのサッチー(オートマトンという言葉がここに配されるだけで私なんかうれしくなってしまう)の顔がポストン君(旧郵政省のマスコット)に近いのも今は総務省になったが昔電気通信が旧郵政省管轄であったところも影響しているのだろうかとさらに感心。
 『あっちのミチコさん』(9話)なんかはさらにいいじゃないですか。定番の学園ものの怪談めかせながら、その芯に心と体と情報とイメージのハードプロブレムをはらみながらの生死の境を描いてしまう。イリーガルのなぞも、ますますそういう方向に収斂しつつ拡張していきそう。
 といいながら、実は私はペットのデンスケの描写だけで涙ものなのである。ペットと子供だけで泣いてしまう。涙腺弱くなっちゃって。
 でも、子供にとってペットというものがどういうものか考えると、ペットは普通なら子供より先に死んでしまうし、子供より力も弱い。それでいながらペットは子供になつき、甘える。子供にとってペットは小さな生き死にと遺伝子的アルゴリズムが積み重ねてきた生命の歴史の一つの模型であり、子供はそのペットの小さな息吹だけで、その難しい概念を理解させられてしまう。生きることのなかに死が含まれていることを知ったとき、子供は未来を、自分の運命を、そして父母や兄姉との別れを予感する。子供にとっては残酷だが、でもその残酷さを知るからこそ、他者を理解しようとか、他者を受け止めようとか、他者による自分への浸食にノーを言おうという覚悟を得ることができる。ペットはそういう意味で、実に教育的でもある。
 可愛いだけではない。可愛い上に、その可愛いものが普通に過ごしていると自分より先に死んでしまうのだ。だからこそ子供は必死になってそのペットの命を救おうとするし、救えなかったことで苦しむ。でもそれを減る子供はあきらかに優しく、人の気持ちに思いを致せるようになる。マンションでペット飼育ができるように運動しながら、ユキさんの実家のペット事情や、キアヌちゃんやミンちゃんのことがあって、本当に思う。
 そこらへんを使うところで、そうか確かにこういうSFネタ、科学技術ネタを子供世界とペットを組み合わせて描くというのはスケープを広げる面で非常に作る方はタイヘンだけど見る方はモノスゴク感じ入れるのだなと納得してしまった。
 凡庸な映画やドラマでは結構子供はガキというか、頭が悪くドジでギャアギャア騒ぐ邪魔者にしかかけていないものもあるが、この『電脳コイル』を含め、真に上質な物語では子供は大人よりも賢く、またドジではあるがそれ以上に真剣に物語の本質に向けて突き進むところが描かれる。今思い出しただけでも、大人だったらよけいな欲望だので物語全体をスポイルしていたなという子供の物語がある。作劇の上で子供を主人公にするか大人を主人公にするかはそれぞれとはいえ、私としては子供を主人公にするのもまたいいなとこの『電脳コイル』で思った。特に未熟さと表裏一体の過剰な感情、悲しみや喜びが物語を鮮やかにする。
 ますます楽しみである。監督はコンパクトにまとめるのですべての設定とそれによる伏線が回収しきれずに終わる可能性も多く、そこでSFではないかもしれないと思うなどとおっしゃっているが、それだったらSFのほうが無意味だ。むしろこの『電脳コイル』こそSFとして評価したい。そうでなけりゃ、だれもSFなんて面倒でただひたすら批評対策的な小さなものしか認められなくなってしまう。こういう世界の広がり、そして世界と心理の関連、その背後にある科学的な命題。これこそ黄金期のSFの真髄ではなかっただろうか。
 SFの人々自身、この『電脳コイル』を評価することがSFというジャンルの遺伝子をバトンタッチしていけるか、それとも自分たちで食いつぶして滅ぼしてしまうかの岐路であることを自覚してほしい。うちのプリンセス・プラスティックなんかSFだろうがなかろうがどうでもいい。私はSFと思っているけど、思わない人がいてもべつにいい。私は書き続けるのだから。
 だが、『電脳コイル』は良いSFだと思う。この『電脳コイル』の完成度と開きつつある地平を評価できないなんて、SF以前に物語を受け取る心としての審美力を疑っちゃうよ。
 というわけで熱烈プッシュである。それにこの『電脳コイル・アクセスガイドBOOK』、通販で入手したときはずいぶん薄いなあと思ったけど、実に内容が濃い。勉強にもなる。これまでのSF電脳との関連やロボットペットとの関連の記事もあり、実にいい。お買い得である。おすすめ。ちょっとフォント小さめだが、それぞれの記事の量も内容もまさに適切。ガイドブックといいながら奥行きも十分。実に面白い。
 ところで、星雲賞ってどういうものかよくわからないのですが、私としては『電脳コイル』を候補にしてほしい。できれば大賞に。それぐらい入れ込んでいる。
(後補・星雲賞は前年終了の作品をリストアップし、SF大会の参加者の投票で決めるそうです。という事はこの『電脳コイル』が今年エンディングとなれば来年の候補になるそうです。
 Iさま、教えてくださって有り難うございました。
 ちなみに来年のSF大会はDAICON7だそうです。行きたいなあ。
 http://www.daicon7.jp/
 今年はワールドコンだそうです。
 http://www.nippon2007.org/



 ちなみにプリンセス・プラスティック/エスコート・エンジェルはえせSF大賞というものをもらったらしいのですが、これもよくわからない。関係ないと言えば関係ないんですが。


 私はプリンセス・プラスティックを書き続けます。もうたぶん商業出版に乗ることはないでしょうが。いろいろと今思い出しても腹立たしいあれこれがあって、こらえきれずに内容証明を送ったんです。
 ハヤカワ版プリンセス・プラスティックは絶版です。たぶん。それでいいんです。私のような小説描きは下請けの作業員扱いだったんですから。ここはこうならないとつじつまが合わなくなると主張しても、下請けが何を言うという扱いでした。それでも主張してそういう物語構造だとわかるわけです。そうなると、だいたいの人はそう強弁したあげくに自分が間違っていた場合、指摘された真実があっていればいるほど狂います。
 今度は罵詈雑言を並べ立てたゲラと中傷の手紙の転送が来ました。
 結局最後には同じ本を出す信頼関係もまったくないし、ただただ私は下請け労働者でした。
 そんな関係で夢のある物語がかけるわけもない。そこで私は決別し、出版契約の解除の内容証明を送りました。
 私をちょうど良い下請け労働者とあつかった彼がどう言いふらしたかどうかわかりません。ほかの同じ立場の人間は私が絶対に使いたくない言葉を付け足したり、帯返しの文章にしました。ほかにも読者をバカにしている人も多かったです。それでも私をデビューさせてくれたKさんと、B社のOさんは別格でした。彼らは本当に本を作っていました。本当の文芸編集者でした。おなじ志を共有できました。
 でも、そうでない人々が増えました。作者は下請け、文句を言えば相談も合議もなく、一方的に企画終了出版なしというパワーハラスメントをやったり、勝手に印刷所に持っていく間にあちこち文章を変えてしまったり、本文にあり得ない文章を本文の抄録として帯返しに入れた人もいます。というのも、そういう作家から原稿を受け取る人々のなかに、自分が作家になりたい人が多くなったからでしょう。こんなのオレにも書けると。
 書けば良いんです。書いて失敗した例はいくらでもあります。彼らが成功する確率は作家が一般人の中からデビューする確率とほとんど同じでしょう。失敗は怖い、でも書き手は下請けだと思っている。だから書き手をいじるんです。
 こんな信頼関係のない本づくりが読者に信頼されるわけもありません。

 
 まあ、それでも作家という言葉にドリームを抱いている人は多いし、小説家というのはいつも基地外につきまとわれるものです。むかつくこともいっぱいありますが、私はプリンセス・プラスティックを書き続けます。
 先輩作家たちが借金作ったり締め切りのばしたりと精一杯作家というものの価値を食いつぶしてくれたので、今の私のような小説描きはほとんどが下請け労働者です。今のラノベの作者もだいたいそういう立場です。たまたま私は経済的にそういう世界に依存しない方法が見つかったので(だからこの日記もたまにしか書けない)、こうして内容証明を送りましたが、現実には打ち合わせという場で何も主張できず、単に出版社側の企画と仕様だけで書いている下請けの人は本当に多いです。そのなかでも成功と失敗があるけれど、成功すれば出版社の企画の良さ、悪ければ下請けの力不足という使い捨て関係です。
 そういうところでも生きて行かねばならない彼らは、そこで別の名前になったり、妥協を続けて生きねばなりません。それもまた苦渋の決断だし、私は彼らを尊重します。彼らは苦労しているのです。だから、今売れているシリーズの作者で、実は自分に何の決定権もないんだよとうち明けてくれた人のことも秘しておきます。


 何が言いたかったのか、だんだんぼやけてきましたが、こんな状況に陥った私も、夢を見ていた時期があったのです。
 その夢が、『電脳コイル』で映像にされていて、私は私の手でやりたかったけど、でも私は、私が有名になりたいから物語を書き始めたのではありません。
 夢見た世界を映像やイメージにすることが大事で、それが誰の手によってもかまわないのです。
電脳コイル』には私はいっさい携われませんでした。ただひたすら、磯光雄という稀代の才能によって実現したのです。
 でも、それに私は感動を覚えています。私はそれでいいのです。
 プリンセス・プラスティックはWeb手売りで書き続けて、また違った方向に進みました。今は本当に心と体のハードプロブレムを追求します。あの人も命を失いました。あの物語の中核にいた人も失われました。そして、BN-Xによって不安定になるはずの国際社会は、奇跡のBN-X共同保有となりましたが、それも引き裂かれました。
 私はそれを書き続けます。それが私の生きるということだからです。