すばらしすぎます!

 何回か取り上げているけど、H.kumaという方(以前パイクの記事で取り上げた)の終端駅セクションがすばらしい。


終端駅のセクション
http://hkuma.net/sect/


 神も悪魔も降り立たぬ荒野に我々はいる、とはナムコ『源平倒魔伝』の結びだが、神様ですよ。事実、同氏はこれまでもすばらしいご活躍をなさっています。失礼ながらトラックバックを送信させていただきました。
 これ、1/150だよ。1ミリが150ミリ、15センチになってしまう世界だよ。
 それをここまで。
 絶句。ここ数日すごいなと思っていたけど、本当にすごい。
 時計はちゃんとJR時計になっているし、緻密に作られた自動改札機、自動券売機、各種表示の数々。
 どれ一つ手抜きなし。作例写真はN(1/150)であることを限りなく越えていく。
 かないません。よねでん線は地味にやっていきます。私は並の鉄道模型好きで充分です。
 でも、模型って結局こうなるんだよなあ。作例写真に感動して、だんだん自分で作らなくなっていく。未完成の箱が積み上がり、模型も完成品を買うだけになっていく。
 ううむ、こりゃ1月の腕木式信号の到着がプレッシャーだな。うちも1月にTOMIXの可動式腕木式信号をよねでん線に投入します。今からどういう工作になるか、考え込んでいます。

思わぬ野望の復活「A列車で行こう4グローバル」で遊ぶ

 『A列車で行こう4グローバル(プレステ)』に今更はまる。なんとプレステ1用のソフト。

(PC版)
 いろいろ出ているようです。A7は本格的に遊べそうですね。ただ、私としては鉄道模型も列車に乗るのも楽しいのと、A7に投資する額を考えると、PCのスペックを上げたりPCの画面で見たりすることがちょっとハードルに思えてしまう。
 そこらへんにPS3の誤解があると思う。通信能力と画像処理能力の優れた最新PCでできることをゲーム機でやろうとするからビジネスPCなみの値段になる。確かにPS3の能力のあるゲーム用PCを作るとしたら、PS3は採算割れだと思う。でも、ゲーム機としては高すぎる。
 もしPCとブルーレイプレーヤー・DVD/HDDレコーダーとゲーム機と統合されたPlayStationVAIOだったら話は違ったと思う。ゲームとプリンタ、ビデオとプリンタの融合も面白いし、ゲーム機やHDDレコーダーにマウスやキーボードの操作インターフェースが着くこともたまらない魅力になっただろう。だが、それができないのがSONYクオリティ。


 それはさておき、ゲーム。
 大掃除ついでに出てきたので。久しぶりにPS2につないだサブTVで遊んでみる。うちにはゲーム専用のサブテレビがあるのだ。
 懐かしいなあ。昔さんざん遊んだけど、操作もかなり忘れている。
 決算が出た4月をわすれて5月に買い物して、6月の税納付のお金がなくなって葉さんするというパターンのゲームオーバーをしたり、あとセーブとロードを間違えたりした。ピクトグラムわかりにくすぎ。
 でも面白い。新線開通のあの喜ばしさとか、今でも変わらない。
 そこで今思うんだけど、A4ってよく考えれば自然破壊ゲームだよなあ。
 街作りといえば言い方は良いんだけど、やっているうちに緑の美しさに見ほれてしまうようになる。できれば開発されずに緑が残って欲しいと思ってしまうのだ。
 初っぱなの『段々畑の見える街』をやっていって、大規模複線環状線を作って、途中止め忘れて40年近くやっている。
 確かに大都市にはなったが心が痛む。緑を残すにはあえて公園を作らなくちゃいけないし。新幹線を1年で作れるほど発展しても、なお心が痛む。
 翌日までほったらかして漬け込んで、地下に第2の複線環状線を作り、実質複々線環状線にした。川越えはあえて大深度地下を通す。まあ、ゲームに入ってはゲームに従えで、全ての駅の列車の出発時間を午前8時にして、全て高速列車にしてそこそこ運賃の高い車両を使えば大丈夫なんだな。
 あと、このゲーム、日照権とかも関係ないし。自分で建てながら、良いのかなあと思ってしまった。
 まあ昔のゲームだし、摩天楼を作るのが一つの夢のゲームなんだから良いんだけど、お金が余って高層ビル(高さmax)で壁を作ったりして、結局面白く遊んでいる。空港の至近に高層ビルとか。
 あと、画面で列車の番号が見られないので、覚えられるように屋根の色の違う列車を買うのもツボ。
 でも、毎回線路切り替えのシーンはカタルシスあるなあ。営業中の路線と、延長する区間を接続して、列車が正常に動く快感。昔のA2まではパズルゲーム的で、列車は片方向に1、逆方向にその半分の速度しか出ないためにループ線を上手く作ってやらないといけなかった。しかも列車同士が接触したり、車止めのない線路から脱線するとボーンと事故が発生して大損害。しかも線路を敷設できるのはA列車という自分の操縦する敷設列車のみ。そのA列車が衝突事故を起こしたらゲームオーバー。厳しいゲームだったなあ。
 で、A3からは都市開発ゲームになって、列車は電車になって前後方向どちらへも同じ速度で走れるようになり、接触しても車止めは自動になって線路の終端に行くとそこから折り返し運転するし、列車同士がぶつかっても停車するだけで事故にはならない。
 でも、営業中の線路を止めずに列車を新線へ一気に誘導するのは快感。
 しかも、地下とかの高さの概念が追加されたり、列車よりも路線を造りやすいバス経営ができるようになってさらに面白い。鉄道駅から鉄道を延ばしたくても急カーブのためにいかないところにバスをのばしたり、地上が開発されてもう路線が延ばせなくなったら地下鉄を掘ったり。
 その地下鉄も超高層ビルなどは基礎があって地下1階を占有するために回避せねばならず、また川も地下2階、大深度地下まで掘らないと越えられない。普通は地上2階の高価を作って鉄橋にして越えるのだが、私は野望があったのであえて地下。
 それが、回避する路線を造るのがけっこう難しくて楽しい。結局一カ所スイッチバックを作った。面白い。


 で、遊んで頭をリセットして、原稿作業。1月締め。
 ついに残り1枚まで追いつめる。追いつめすぎたかな。
 元々登場キャラが多い気もしていたが、しかし両師匠からはどんな書き割りキャラでも設定はしておくべきと教え込まれている。
 一応原稿100枚につき1人、という目安があって、500枚の場合は5人、300枚の時は3人のキャラを使うのがセオリーといわれているらしい。
 とはいえそうもいかなかった。クヤシサがあるが、しかしそれはそれでスケープも広がったし、良しとしようと思う。
 確認作業中。やっぱり大判にすると致命的な誤字が見つかったり。怖いなあ。40桁40行の書式で印刷。winlprtは新しく書式を作るのが苦手なので(設定項目が多くてネライ通りに印刷できるけど、逆にデフォルトの書式が貧相)、一太郎で印刷。

キネンビ。

 クリスマス。
 ケンタの揚げ鳥と発泡酒で宴。
 注文していたDVD、ゲームセンターCX3も、ユキ父のプレゼントもとどいている。

ゲームセンターCX DVD-BOX 3

ゲームセンターCX DVD-BOX 3

 二人ともあんまり幸せなので記念写真をしてしまうほどの勢い。
 珠ちゃんにも鳥をお裾分け。でも珠ちゃんはまだ鳥の味が分からないようだ。
 去年はミンタさんが鳥を食べていた。命は受け継がれていく。
 そういえば昔、品川プリンスでディナーのクリスマスもあったなあ。ユキさんはあのころ九州在住で、飛行機で東京に来てもらったなあ。ケンタ途中で買って、ホテルに持ち込んで食べようと思ったけど電車に乗るのが疲れてタクシーでホテル直行したこともあったっけ。
 友人モリのカップル(現在夫妻)と同じ品川プリンスに行ったこともあったなあ。汐留開発で前年トップオブシナガワから見えていたレインボーブリッジが見えなくなっていたっけ。
 でも、その前は精神科病棟退院直後で、友人もほとんどいなくて、一人で子供部屋のテレビ相手に過ごしたクリスマスもあった。
 今の私は、ユキさんとケンタッキーの宴をした後、原稿をやりながらM−1を見る。ライセンスが敗者復活か。苦労したんだなあ。
 ユキさんはPCでグリーティングカードを友人に送信中。
 M1の結果が出る。いやー、すごかった。満場一致。まあ、あの完成度だもんなあ。

亀田のなにが不愉快か

 ま、端的に言って、2ちゃん的だからでしょう。小物が集まって、虚勢を張って周りを不愉快にさせることをやって、人を大量に集める。それも小物ばかり。
 で、小物なので集まりすぎたのに怖くなってひっこめる。すると集まった小物どもも『祭り』の終わりが寂しいからと上げたり下げたりしてしばらく騒ぎ、くすぶる。
 何から何まで小物。
 第一、格闘技にしろ勝負事にしろ、勝ち負けのはっきりすることについてあそこまで大口を叩き、相手をバカにするのは見ていて愉快になるはずがない。負けた悔しさに気付く常識のある大人だったら、勝っても相手を思いやるものだ。
 肉体も勝負勘も永遠のものではない。歳とともにいずれ衰えていくものであり、いつか自分も負ける側に回るのだ。絶対に勝ち逃げができないのが人生なのだし、また勝利へ向かう中に小さな負け、悔しさは体験するはず。結局相手を思いやるからこそなのだ。
 だから格闘技では礼を重んじる。単なるケンカでさえも、相手を完全に追いつめてはいけないのは大人なら分かるはずだ。亀田はそれをやらない。要するに未熟な小物なのだ。
 なんだか世の中が格差社会と呼ばれるよりも2ちゃんねる化している気がする。思いやれない小物が起こすつまらないことが増えた。それはそれでスルーしてしまえばいいのだが、マスコミも小物がやっているから騒ぎにする。
 その次元で政治や政策、経済や時事を話題にする。これでまともになるわけがない。まさにバルザックのジャーナリズム性悪説と同じ、2ちゃんねる亡国論である。ちなみに亀田問題をアソコまで悪し様に行ったやくみつるもいずれまた引きずり降ろされるだろう。
 第一やくみつるがちょっと持ち上げられたのは中田ヒデの引退『自分探しの旅に出る』を『30の男が言う台詞か』を評したところでちょっと持ち上げられて、そこで亀田問題に触れただけで、現に亀田が引っ込めばやくみつる自身あげた拳がおろせないみたいに言われている。いやそうじゃないんだけどさ、もう単細胞の小物の多いマスコミになったから、そういう小さいサイクルでしかものを論じられないんだろうな。
 だが、たしかに2ちゃんねるの中には良レスがある。たとえば東証V時回復を記したレスは、どこのスレだかは忘れたが、その日をきっかけに7000円台の株価が上昇しはじめた。また、経済学が禁止された世界というSFを投稿した人もいた。日本で、不況だのなんだのは経済学者が言うからで、経済学者を追放し、経済の経営から追い出そうとする。すると社会はどうなるか。その描写は実に面白かった。
 だが、それに出会うのは難しい。それに、それにたいしてつまらない茶々を入れる小物が多すぎる。中には小物であることをなにか勘違いして、人を不愉快にすることが楽しくてやっているとしか思えない人々もいる。
 まあ、そういう世の中をバルザックは批判したし、80年代のバブルを煽ったマスコミを批判する本を出した人々もいた。メディアが悪いんじゃない、といういいかたをする人もいる。確かに2ちゃんの特徴は匿名性よりも量的過多と同時の過剰な速報性・同報性かもしれない。
 結局、それに対応するにはSNSへの変更でも無理で、結局こういう時代に合わせて一人一人が『嘘を嘘と見抜く』かもしれないが、ある程度我慢をし、堪えねばならないのだろう。大人になるしかないのだと思うし、それは決してつまらないことではない。大人になれば、大人になったことで分かることは増えて楽しいのだ。
 昔、ずいぶんな世界だとそのころのウェブを言ったら、世の中、リアルワールドもずいぶんだ、と言った人がいた。まあ、そういう人はリアルワールドのずいぶんな面にしかあってこなかったのだろう。リアルワールドには、ずいぶんな一方で、深みのある人々が静かに存在していて、それが目立ちはしないが静かな良識として存在していた。騒ぎは所詮騒ぎだったのだ。
 そういう世界観を私は求めていたし、それを私は体験するようになり、それを元に世界構築をして、最近ではその騒ぎと世界の関係を考えるようになったけど、あの人々は結局、今の私と同じぐらいの歳だったのだけど、結局そういう良きものの存在を言えなかったのか、言わなかったのか、それとも知らなかったのか。
 どっちにしろ、ケンカにろくな事はない。
 そのろくな事はないケンカをスポーツにするのだから、スポーツ、技としての格闘技は礼に始まり礼に終わらねばいけない。それができないのは単なるガキか馬鹿だ。
 私はその点で現在プロレスラーの小川直也も好きではない。たしか昔柔道をやっていたと記憶していたが、優勝できなかった結果へのふてくされ方が酷かったし、プロレスラーとなってから、破壊王と呼ばれた他のプロレスラーの死へのコメントも常識を疑うものだった。
 実はそこら辺のデリカシーを私はとても重要に思っている。実はその件でとある人物と大げんかして、その結果とある結果になった。実はものすごく損をした。でも、それでも良いと思っている。
 そういう感受性の人とは同志としてはやっていけないのだ。損をしたとしても、私はそれ以上に自分の感受性を痛めつける生活はできない。それだったら他に職を探す。
 でも、その感受性を活かして、今文章を書いて生活をしている。ありがたいことである。